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笹原 俊さんの記事を貼り付け。【拾壹】●〔終〕●  第二次世界大戰篇[二次大戰の眞實篇]《大東亞戰爭篇、太平洋戰爭篇》※記事で書いてる數は七個。[後編] <完>

 

 

 

 

 

62 二次大戦の真実5 日本は第二次世界大戦に勝利していた!? 大東亜戦争の帰趨とその後① マレー沖海戦とマレーシアの独立。

 

2020-09-15

 

開戦3日の大戦果

 大東亜戦争における緒戦の戦いは、12月8日のハワイ真珠湾攻撃が有名ですが、実は日本がこの日に攻撃したのは真珠湾だけではありません。

 

 

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大東亜戦争における戦闘

 同じ12月8日の真珠湾奇襲よりも前に、陸軍がマレー半島(イギリス植民地)に上陸し、海軍はハワイと同時に、フィリピン(アメリカ植民地)及び香港(イギリス植民地)を攻撃しています。4方面同時攻撃だったわけです。

 

 3日目の12月10日には、イギリス東方艦隊との間で、マレー沖海戦が行われます。ここで日本海軍は、イギリスのプリンス・オブ・ウェールズ及び、レパルスの2隻の戦艦を含む、10隻の艦隊をすべて撃沈します。日本側はほぼ損害なし、という大勝利でした。

 

マレー沖海戦の後世に与えた影響

 このマレー沖海戦は、その後の世界の趨勢に大きな影響を与えました。

 

 まずは、この海戦は、航空機のみの攻撃によって戦艦を撃沈した、人類史上初の戦いでした。これはのちの海戦の手法に革命をもたらします。

 

 そしてそれ以上に大きな意味を持ったのは、マレー沖海戦は、植民地の人々の目の前で、有色人種が宗主国の白人に正面から戦いを挑んで、完全勝利を収めた、はじめての戦いであったということです。

 

 20世紀初頭の時点で、白人たちは有色人種たちの国をほぼすべて植民地とし、支配と収奪を行っていました。植民地の人々はそれまで何度も反乱を起こしましたが、そのたびすべて鎮圧されてしまっていました。

 

 この状態が長く続いたので、白人は有色人種よりも優れた人種であり、有色人種が白人に戦いを挑んでも絶対勝てないのだ、という考え方が、有色人種の間に根付いてしまっていました。

 

 しかし、マレー沖で、日本が、東南アジアの人々が見ている目の前で、イギリス艦隊を撃沈したことで、この「白人の呪縛」が解かれ、有色人種であっても白人に勝てる、という確信を、アジアの人々に持たせることに成功したのです。

 

 

マレーシアの独立

 現在マレーシアとなっているマレー半島およびシンガポールは、1874年以来、イギリス領マラヤとして、イギリスの植民地となっていました。

 

 この地域は今も昔も、錫の世界的大産地です。

 

 イギリスは。この地で華僑に錫鉱山を開発させ、マレー人の農民を強制労働させて、錫の採掘を行っていました。

 

 マレー人たちは、何度も反乱を試みましたが、その度鎮圧され、白人は優れた人種であり、アジア人は白人には勝てない、と思い込み、イギリスの収奪を受け入れていました。

 

この状態で、1941年12月がやってきました。日本軍がマレー半島に攻め込み、マレー沖海戦が行われました。

 

 マレー人たちは、日本は白人には勝てないだろうと思っていたのですが、その意に反し、日本軍はマレー人たちの目の前で、プリンス・オブ・ウェールズとれパルスを撃沈し、イギリス太平洋艦隊を全滅させました。

 

 その後日本軍は、マレー半島全域を2か月で制圧し、シンガポールに攻め込みました。

 

 シンガポールは難攻不落の要塞と言われていましたが、日本軍はこれを1週間で陥落させ、マラヤ全域を日本の統治下に加えました。

 

 日本はマレー人を一人も殺すことなく、マラヤを占領するイギリス軍とその片棒を担ぐ華僑たちを一掃し、マラヤを同胞として迎え入れたのです。

 

この件に関して、のちにマレーシア独立戦争を指揮した、マレーシア建国の父を呼ばれるラジャー・ノンチック氏は以下のように回想しています。

 

「私たちは、マレー半島を進撃していく日本軍に歓呼の声を上げた。敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えた。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、マレーシアを日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの国の国語を普及させ、青少年の教育を行ってくれたのだ。」

 

日本によるマレーシア統治

 日本によるマレーシアの統治は4年余りの短いものでした。その統治は、上記のノンチック氏の言葉の通り、植民地として収奪するのではなく、マレー人を同胞として迎え入れ、将来の独立と、その後の自力発展のために協力する形のものでした。

 

 日本本土から投資を行い、インフラを整備し、錫鉱山を開発しました。現地の人たちを正当な賃金で雇い入れ、錫採掘の利益をマレー人に還元しました。

 

 小学校を作り、現地の言葉で教育を行い、識字率を上昇させ、初等教育をいきわたらせました。

 

 この4年間の日本の統治によって、マレー人は生まれ変わりました。白人から一方的に収奪されるのではなく、自分たちの手で白人を排除し、自分たちの手で国家を発展させることができるのだ、という考え方が、マレーシア全土にいきわたったのです。

 

イギリス再統治とマレーシア独立

 1945年、日本の降伏後、この地にイギリスが戻ってきました。イギリスはまたもとのように、植民地支配を行い、収奪を行おうと試みました。

 

 しかし、マレー人は、もはや以前のマレー人ではありません。マレー半島全土で反英運動がおこり、各地でマレーシア独立を旗印に、独立軍が蜂起しました。

 

 その独立運動のリーダーとなり、マレーシアを独立に導いたのが、前述のノンチック氏です。

 

 1957年、イギリス領マラヤ連邦は、イギリスから独立を果たしました。

 

 その後、1963年、マラヤ連邦に、シンガポール北ボルネオ、イギリス領サラワクが統合し、マレーシアが成立しました。

 

 1965年には、華僑を主体とするシンガポールが、マレー人を主体とするマレーシアから追放される形で分離・独立しました。

 

アジア植民地独立に際しての日本の役割

 このマレーシア、ひいてはその他のアジア諸国独立に際して、日本はどのような役割を果たしたのでしょうか。

 

 それは1992年に行われた、マレーシアのマハティール首相の以下の演説に如実に表れています。

 

「東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、自分たちも他の世界各国も驚くような成功を遂げた。東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、実際にそれを証明してみせた。
もし、日本なかりせば、世界はまったく違う様相を呈していたであろう。富める国はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。北側のヨーロッパは、永遠に世界を支配したことだろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、スズを掘り、それを富める工業国の言い値で売り続けていたであろう」

 

 ヨーロッパ諸国の植民地となり収奪されていたアジア諸国は、大東亜戦争で、白人の宗主国が、アジア人の日本に敗北するのを目の当たりにしました。

 

 これでアジア人は白人には勝てないという幻想が根底から崩れました。

 

 その後の日本の統治によって、国内産業が発展し、青少年が教育を受け、自分たちの力で国を運営していけるんだという自信を得ることができました。

 

 その後、宗主国が戻ってきたときに、彼らは迷うことなく反乱を起こし、自らの手で鞘腫国を追い出し、独立を勝ち得ることができたわけです。

 

 この精神的基盤を形成したのは日本であり、日本の大東亜戦争による活躍と、日本統治による国力の発展だったわけです。

 

 日本は大東亜戦争で、アメリカに無条件降伏しましたが、その植民地解放の精神はアジア諸国に確実に根付き、その後の植民地解放をもたらすことができたのです。

 

 

63 二次大戦の真実6 日本は第二次世界大戦に勝利していた!? 大東亜戦争の帰趨とその後② インドネシアの独立。

 

2020-09-18

 

オランダとの闘い

 さて、それでは他の方面に進出した大日本帝国海軍はどうなったのでしょうか?

 

 インドネシアは当時はオランダ領東インドと呼ばれ、オランダの植民地となっていました。

 

 この地はそもそもナツメグ・丁子・肉桂などの香辛料の大産地でした。オランダは1602年に、オランダ東インド会社を設立し、この地の植民地経営を本格化させ、香辛料の収奪を行いました。

 

 19世紀初頭には、悪名高き、強制栽培制度を施行し、この地で、サトウキビ、藍、茶、コーヒー、タバコなどの商品作物を栽培させ、利益を上げました。これらの商品作物の強制栽培によって、食料が生産できなくなったため、大量の餓死者が出ました。

 

 オランダ領東インドの人々は何度も反乱を起こしましたが、そのたびに、オランダ東インド会社軍に鎮圧されてしまって今いました。

 

 さらに19世紀末には、スマトラ島東岸で、油田の採掘に成功し、現在のロイヤル・ダッチ・シェル社の大発展につながりました。

 

 大東亜戦争直前の時点で、オランダ領東インドの石油の生産量は、800万トン以上となっており、これは当時の日本の年間石油消費量500万トンを超えていました。

 

 アメリカからの石油の輸入を止められていた日本は、石油を確保することが急務となっており、この地の石油を手に入れることが海軍南進の大きな動機の一つとなっていました。

 

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蘭印作戦の開始

  大東亜戦争開戦以前に、1940年5月の時点で、本国オランダがナチスドイツに占領されて滅亡しており、オランダ領東インドは本国から切り離されて、東インド会社の守備軍が独自に防衛を行っていました。

 

 マレー沖海戦で勝利を収めた日本軍は、翌1942年1月11日、オランダ領東インドへの侵攻を開始します。これが蘭印作戦です。

 

 タラカン島から始まった作戦は、その後、ボルネオ島スマトラ島、バリ島、ジャワ島を制圧し、ジャワ島に迫りました。

 

 2月27日、アメリカ・オランダ連合艦隊とのスラバヤ沖海戦に勝利し、3月1日にはバタビア沖海戦に勝利した日本軍は、ジャワ島に上陸します。

 

 3月8日、日本軍はバンドン要塞を陥落させ、10日、バタビア(現ジャカルタ)に入城、オランダ領東インド全域の制圧に成功します。

 

日本のインドネシア統治

 この後、日本は1945年8月までインドネシアを統治します。この統治は他の東南アジア地域とは一味違ったものになりました。

 

 インドネシアは、何度もオランダへの反乱を行っており、国内にインドネシア独立を目指す勢力と、独自の軍隊が存在していました。

 

 また非常に民度が高く、教育を受けた市民がたくさんいました。

 

 日本は最初はインドネシアを直接統治するつもりでしたが、これを見て方針を変換し、インドネシア人の手で、この国を独立させ、国家を運営する手助けをすることにしました。

 

 1927年に結成されたインドネシア国民党の指導者で、、翌28年に「青年の誓い」を掲げてオランダと戦って流刑になっていた、スカルノを助け出し、彼の軍隊に、日本式の厳しい軍事教練を施しました。

 

 ちなみにデヴィ夫人という方は、このスカルノの第3夫人です。

 

 さらにはこの地の住民が使用していたインドネシアという国号を認め、これを公式に使用しました。

 

 日本は他の地域の当地で行ったように、日本資本によるインフラ整備、産業振興、教育の整備はもちろんインドネシアでも行っています。

 

 他の地域では教育は初等教育中心で、現地の言語の読み書きを教えていました。

 

 しかしインドネシアでは、日本は高等教育に力を入れました。日本は、官吏養成学校、士官学校医科大学、工業学校、農林学校、商船学校などを次々に開設して、3年間のうちに10万人以上の現地エリートの育成に成功しました。

 

 これらの人々は、独立後に国家の中心を担う人材となりました。

 

 日本はインドネシアを同法として独立させ、ともにアメリカと戦ってくれる仲間として迎えようとしていたのです。

 

インドネシア独立準備

 日本の手によって、インドネシア独立の準備は着々と行われていきました。

 

 日本は1944年9月3日にはインドネシアの将来の独立を認容する「小磯声明」を発表しました。

 

 さらに1945年3月にインドネシア独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させました。同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されることになっていました。

 

インドネシア独立戦争

 

  しかし、8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を行ってしまったため、この会議は中止となりました。

 

 この後、オランダが宗主国として再びインドネシアを統治することになりましたが、スカルノはこれにかまわず、8月17日、インドネシア独立宣言を発します。

 

 この時の独立宣言の日付は、「5年8月17日」となっています。「5年」というのは、皇紀2605年のことです。

 

 皇紀は初代神武天皇即位から数えた年号で、当時の日本で広く使われていたものです。

 

 この直後から、戻ってきたオランダ軍との間に、インドネシア独立戦争が勃発します。

 

 この独立戦争には、大東亜戦争終戦後、現地に残された旧日本兵3000人が、インドネシア側でともに参戦しました。

 

 彼らはインドネシア軍に武器・弾薬を提供し、自らも最前線に立って、オランダと戦い抜き、実に1000人がこの戦いで戦死しています。

 

スカルノやハッタを中心とするインドネシア独立軍は、粘り強く戦い抜き、イギリス・オーストラリア・アメリカに外交使節団を送り、国際連合にも働きかけ、ついに1949年12月、ハーグ円卓会議にて、オランダから無条件独立を勝ち取りました。

 

 スカルノは初代大統領に就任し、翌1950年インドネシア憲法が制定され、議会制民主主義の国家として国家運営をしていくことになりました。

 

インドネシア独立に際しての日本の役割

 さて、このインドネシア独立に際して、日本が果たした役割について、党のインドネシア国民はどのように考えているのでしょうか。

 

 プン・トモ、インドネシア情報相が、1957年に来日した時の言葉は以下のようなものでした。

 

「我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、350年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりを見て、アジア人全部が自信を持ち、独立は近いと知った。そもそも大東亜戦争はわれわれの戦争であり、われわれがやらねばならなかった戦いであった。」

 

モハメッド・ナチール 元首相は次のように述べています。

 

「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は、私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。」 

 

 日本は私利私欲のためではなく、アジアの植民地の人々の幸せを願って、命を懸けて、植民地解放のための戦いを遂行しました。

 

 その思いが、今でもインドネシアの人々の心の中に伝わっているのがわかると思います。

 

 特にインドネシア独立戦争に際して、自ら従軍し、1000人もの戦死者を出し名がら最後まで戦い抜いた、残留日本兵の方々には、本当に頭が下がります。

 

 もしも日本がインドネシアを支配して収奪するために戦争を行ったのだとしたら、本国の幸福とともにこれらの人々はさっさと逃げ帰ってしまっていたでしょう。

 

 日本が本当にインドネシアのためを思い、現地の人々を幸せにしようと考えていたからこそ、彼らは現地に踏みとどまり、命を懸けて戦ったのです。

 

これについて、サンバス、元復員軍人省長官は次のように述べています。

 

「特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍とともにオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。」

 

 現在でもインドネシアでは、毎年8月17日の独立記念日に、盛大な独立記念祭が行われています。

 

 そこでは日本語の歌や、日本をたたえる歌が歌われ、旧日本軍の紛争をした男性が、インドネシア国旗を掲げます。インドネシアの人々は、今でも自分たちを独立に導いた日本に対する、感謝の念を抱き続けています。

 

  植民地解放のために命をささげた、日本の思いは、今でもインドネシアの人々の心の中に、息づいているのです。

 

 

64 二次大戦の真実7 日本は第二次世界大戦に勝利していた!? 大東亜戦争の帰趨とその後③ 大東亜会議の歴史的意義。

 

2020-09-22

 

 

大東亜会議の開催

 大東亜戦争も中盤に差し掛かった、1943年11月5-6日、東京にて、大東亜会議が開催されました。

 

 参加国及び出席者は以下の通りです。写真左から

 

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大東亜会議

 ビルマ国  バー・モウ (首相)
 満州国   張景恵   (首相) 
 中華民国  汪兆銘   (行政院長)
 日本    東條英機  (首相)
 タイ王国  ワンワイタヤーコーン親王(首相代理)
 フィリピン共和国  ホセ・ラウレル (大統領) 
 インド   チャンドラ・ボース   (自由インド仮政府首班)

 

参加国の特徴

 
 これら参加国に共通の特徴は、アジアにおいて、主に日本の力で、欧米の植民地から脱した、もしくは脱する予定の、独立国であるということです。

 

 この中で日本及びタイは最初から欧米の植民地になっていません。タイ王国は、欧米各国の植民地の間の緩衝地帯として、植民地化を免れました。

 

大東亜戦争開戦後、タイ王国は1941年12月21日に、日泰攻守同盟条約を締結し、翌42年1月25日、アメリカ・イギリスに宣戦布告しています。日本から見ると、タイはともにアメリカと戦う頼もしい同盟国だったわけです。

 

 満州国中華民国は、すでに述べたように真珠湾攻撃以前に日本が解放した独立国です。この時までに日本は、大東亜共栄圏の範囲を中国にまで広げ、満州事変以降をすべて大東亜戦争とするという閣議決定を行っています。

 

 ビルマとフィリピンは、大東亜戦争開始後に日本がそれぞれの宗主国であったイギリスとアメリカを追い出し、直接統治を経て、独立させた国家です。

 

 ビルマは1942年8月1日、フィリピンは同年10月14日にそれぞれ独立しています。

 

 インドはこの時点でまだイギリスの植民地でしたが、チャンドラ・ボースが日本に亡命し、当時日本領のシンガポールで、自由インド仮政府を樹立していました。

 

 自由インド仮政府は、将来のインド独立を目指し、アンダマン諸島ニコバル諸島を統治していました。

 

 日本はインドを大東亜共栄圏に組み込まない意志を示していましたので、チャンドラ・ボースは、オブザーバーとして、この会議に出席しています。

 

 マレーシアやインドネシアはどうしたの?ということですが、これらの地域および、朝鮮、台湾、その他太平洋諸国はこの時点では「日本」に含まれています。

 

 今後次々と独立させて、ともに大東亜共栄圏のメンバーとして共存・共栄を図る予定でしたが、この時点ではまだ独立していないということです。

 

 というわけで、この会議は、日本が提唱する大東亜共栄圏の全地域そろい踏みの会議であるというわけです。

 

 インドネシアに関しては、日本は数年後の独立に向けて準備を進めていましたので、大東亜会議には出席していませんが、会議の翌日、スカルノとハッタが来日し、皇居に招かれて昭和天皇と会見しています。

 

大東亜共同宣言の内容

 この会議では各国の代表が発言した後、会議が行われ、最後に大東亜共同宣言が全会一致で採択されました。その内容は、次のようなものです。

そもそも世界各国がそれぞれその所を得、互いに頼り合い助け合ってすべての国家がともに栄える喜びをともにすることは、世界平和確立の根本である。
しかし米英は、自国の繁栄のためには、他の国や民族を抑圧し、特に大東亜(東アジア)に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、大東亜を隷属化する野望をむきだしにし、ついには大東亜の安定を根底から覆(くつがえ)そうとした。大東亜戦争の原因はここにある。

大東亜の各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、大東亜諸国を米英の手かせ足かせから解放し、その自存自衞を確保し、次の綱領にもとづいて大東亜を建設し、これによって世界の平和の確立に寄与することを期待する。

1.大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設する。
2.大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立する。
3.大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高る。
4.大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進する。
5.大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献する。

 

 今読んでも素晴らしい内容ですね。

 

 日本人はこの宣言を読んで、「なんだ、当然のことを言ってるな」と思う方が多いと思います。しかしこれはそれまでの国際会議の常識を覆す画期的な宣言なのです。

 

 というよりも、それまでの国際会議の常識が、日本人の感覚からかけ離れたものであったといったほうがいいかもしれません。

 

国際会議の常識とは

 世界初の国際会議は、1648年に行われた、30年戦争の講和会議であるウェストファリア会議であるといわれています。

 

 それ以来、国際会議というのは、基本的に、各国間のだましあいです。

 

 欧米諸国は基本的には上下関係しか理解できません。どの国が、どの国を支配して、言うことを利かせ、搾取するかという発想です。

 

 そして欧米諸国同士の関係は、「パワーバランス」です。

 これはようするに、こっちが戦いを仕掛けても向こうは反撃してくる、おそらくどちらも相手を倒しきれないので、大きく消耗するだろう、だったらまだ攻め込まないほうがいいな、と言って、にらみ合いを続けるという発想です。

 

 逆に言うと、パワーバランスが崩れた時、すなわちどちらか一方が他国を凌駕するようになったときは、ためらわずに攻め込んで、相手を支配下に置こうと狙っているということです。

 

国際会議というのは、パワーバランスの確認の場であると同時に、ぎりぎりパワーバランスを保ったうえで、相手からどれだけの利益を引き出せるかという交渉の場だったわけです。

 

 ですから国際条約には、その利益配分の結果が記載されるのが常です。○○島はどちらの領土である、とか、○○は○○に○○についての権利を認める、とかですね。

 

 大東亜共同宣言の条文には、このようなことは一言も書いていません。

 

 みんな仲良く助け合って、発展していこうね、と書いてあるだけです。

 

 これは加盟国が支配・被支配の上下関係ではなく、友愛と助け合いに基づく対等な関係であることを示しています。このような国同士の関係は、それまでの世界には存在しなかったものです。

 

 さらにはそれまでの植民地主義における欧米諸国の行為が、搾取であり、他国を隷属化させる野望であるとはっきりうたっています。

 

これも画期的なことです。それまで欧米諸国の悪事を面と向かって指摘した国は一刻もなかったわけですから、日本がこれを指摘し、これから脱した国同士で、助け合っていこうと宣言したというわけです。

 

参加国の認識

 では、この会議に実際に参加していた各国は、これらについてどう考えていたのでしょうか。それは会議における各国代表の発言を見ればよく分かります。

 

ビルマのバー・モウ首相は、このように演説しています。

「私はアジアの夢を見続けて参りました。私のアジア人としての血は、常に他のアジア人に呼び掛けてきたのであります。昼となく夜となく、私は自分の夢の中で、アジアがその子供に呼び掛ける声を聞くのを常としましたが、今日この席において私は、初めて夢に非ざるアジアの呼声を現実に聞いた次第であります。我々アジア人は、この呼声、我々の母の声に応えてここに相集うて来たのであります」

 

 ここで我々の母の声という時の「母」とは、日本のことです。ビルマは、日本によって、イギリスの植民地から解放され、独立したことをはっきり認識し、日本を母として扱っているわけです。

 

中華民国汪兆銘は、こう述べています。

 

「本年1月9日以来、日本は中国に対し、早くも租界を還付し、治外法権を撤廃し、ことに最近に至り日華同盟条約をもって、日華基本条約に代え、同時に各附属文書を一切廃棄されたのであります。国父、孫先生が提唱せられました大アジア主義は、既に光明を発見したのであります。孫先生が日本に対し、切望致しました所の、中国を扶け、不平等条約を廃棄するということも、既に実現したのであります」

 「重慶(蔣介石政府のこと)は他日必ずや、米英に依存することは東亜に反逆することになり、同時に国父孫先生に反逆することとなるべきを自覚し、将士及び民衆もまたことごとく飜然覚醒する日の到来することは必定たるべきことを断言し得る次第であります」

 

 西洋諸国と異なり、日本は中華民国を対等な仲間として接し、支配するという感覚がないことをしっかりわかっていますね。さらに日本による中華民国への進撃は、宗主国を追い出し、中華民国を開放するためだったということを、中華民国汪兆銘自身がしっかり認識していたことがわかります。

 

インドのチャンドラ・ボースは、こう語っています。

大東亜共栄圏の建設は「全アジア民族、全人類の重大関心事」で「強奪者の連盟に非ずして真の国家共同体への道を拓くもの」であり、「(大東亜会議の)出席者各位は、新日本、新アジアの建設者としてのみでなく、新世界の建設者として永くその名を歴史に止められるであろうことを、私は確信するものであります」

 こちらも日本が提唱する大東亜共栄圏の思想をよく理解し、心からそれに賛同していることが伝わってくる演説ですね。

 

大東亜会議による国際関係の転換

  でも今は対等な国際関係なんていくらでもあるじゃん、EUだってASEAMだって、ファイブアイズだってそうだし、2国間の条約だって、平和と友好をうたってるじゃん、と言っている方。

 

 まさにそれこそが、大東亜会議の功績なのです。

 

 2次大戦前は、支配と被支配の関係に基づく国家関係の下に、権利の配分を決めていた国際会議、国際条約が、2次大戦後は、対等な国家関係の下に平和と友好実現のための協力事項を決めるものに一変しているのです。

 

 この国際関係を一変させるきっかけとなった、対等な国家間関係に基づく最初の国際会議が大東亜会議であり、平和と友好実現のための協力関係を定めた最初の国際条約が大東亜共同宣言なのです。

 

 日本の無条件降伏により、予定されていた2回目の大東亜会議が実現されることはついにありませんでした。

 

 しかし会議の精神は今も生き続け、世界の国家間の関係はこの会議が意図したとおりのものとなっているのです。

 

 

 

65 二次大戦の真実8 日本は第二次世界大戦に勝利していた!? 大東亜戦争の帰趨とその後④ インパール作戦とインド独立。

 

2020-09-25

 

 

インパール作戦は破れかぶれの特攻?

 大東亜戦争も終盤に差し掛かった、1944年3月、ビルマに駐屯していた日本陸軍は、隣接するイギリス領インド東部の都市、インパールに向けて侵攻を開始しました。これがインパール作戦です。

 

 作戦の目的は、インドを経由した、蒋介石率いる中国国民党への補給路(援蒋ルート)を遮断することでした。

 

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インパール作戦

 

 この作戦は、日本軍将兵にとっては地獄の行軍となりました。

 

 日本軍は3個師団でビルマから、インドに突入したのですが、まずはビルマ国境を流れる、橋のないチンドウィン川を渡河し、3000メートル級の山々が連なるアラカン山脈を越えなければなりません。

 

 この時点で多くの死者が出て、補給物資を失い、とりあえずコヒマの町は落としたのですが、インパールに向かう道のりで戦線は膠着します。

 

 

制空権を持っているイギリスからの爆撃が降り注ぐ中、補給が途絶え、大量の餓死者が発生し、玉砕する部隊が続出します。

 

 7月1日に作戦は中止され、生き残った兵士たちは元来た道を食料なしで引き返し、またもやアラカン山脈越えで大量の死者が出ます。

 

 この辺りの事情は「ビルマの竪琴」に詳しく述べられています。

 

 結局9万人以上の死者を出し、作戦は失敗しました。これに対するイギリス軍の戦死者は49人。この作戦の失敗により、その後の連合軍のビルマ侵攻を許し、ビルマ失陥の原因となってしまいました。

 

 このような事情から、日本軍内でインパール作戦は「史上最悪の作戦」と呼ばれることになりました。

 

インド国民から見たインパール作戦

 

 しかし日本史上最悪の作戦と呼ばれるインパール作戦も、当のインド人民から見ると、まったく様相が変わってきます。

 

 これを説明するためには、当時のインドの状況を理解しておく必要があります。

 

イギリス植民地としてのインド

  1800年代前半から、インドはイギリスの植民地となっていました。イギリスから流入した安い綿織物は、インドの綿産業を壊滅させ、1840年アヘン戦争以降は、イギリスによる中国向けの、アヘンの強制栽培がおこなわれていました。

 

 インドの富はすべてイギリスに収奪され、19世紀末には、大規模な飢饉が立て続けに発生し、何千万人の餓死者が出ました。

 

インド国民は何度もイギリスに対して反乱を起こしましたが、そのたびに鎮圧され、インドの人々の間には、戦っても無駄だ、アジア人は白人には勝てない、というあきらめのムードが蔓延していました。

 

インド独立への道

 このあきらめムードに一石を投じたのが、1904~05年に行われた日露戦争です。

 

 アジアの黄色人種の国である日本が、白人国家のロシアに勝った、という事実は、インドの人々を奮い立たせ、インド国内に本格的な独立運動が生じてきました。

 

 1895年に設立されていたインド国民会議独立運動を活発化させ、これによってイギリスが1905年に発したベンガル分割令が廃止されました。

  

 1916年にはジンナーらによる全インド自治連盟が結成され、1919年からは、マハトマ・ガンジーによる非暴力不服従運動が始まりました。

 

ガンジーの運動は、一定の成果を上げましたが、やはりイギリスからの独立を果たすための決め手を欠いていました。チャンドラ・ボースはこの運動に身を投じていましたが、1921年に、

「ガンディーの武力によらぬ反英不服従運動は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが、現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」

とのべて、この運動から離れています。日本ではインド独立におけるガンディーの役割が強調されていますが、実際にはガンディーが精神的支柱となり、チャンドラ・ボースが、軍を率いて戦い、この両輪によって、独立が達成されたということができます。

 

大東亜戦争の発生

  そして1941年、大東亜戦争が発生し、翌42年、日本軍はマレー半島に攻め込みました。マレー沖海戦で日本は、アジアの人々が見ている前で、不沈艦と言われていたイギリスの、プリンスオブウェールズとレパルスを撃沈し、イギリス艦隊を壊滅させます。

 

 インドの第2代大統領を務めた、ラグ・クリシュナンはこれについて以下のように述べています。

「インドでは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた」 

 

 その後、日本はインド方面への侵攻を本格化させ、1942年4月にはセイロン沖海戦で連合国海軍を破り、インド洋のイギリス海軍を大きく後退させました。

 

  その後チャンドラ・ボースは日本に亡命し、昭南島シンガポール)で自由インド仮政府を結成し、アンダマン島とニコバル島を軍事占領しています。

 

 ボースは43年11月に行われた大東亜会議にも出席し、インド独立に向けた熱い思いを述べていましたね。

 

インパール作戦実行

 そしてインパール作戦です。

 

  インド開放を掲げ、アラカン山脈を越え、突入してきた日本軍を見て、インドの国民は驚愕しました。

 

 まさか、外国人が、命を懸けて、自分たちの解放のために戦ってくれるとは夢にも思っていなかったからです。

 

 日本軍はイギリス軍と正々堂々真正面から戦い、そして散っていきました。

 

 インドの民衆は考えました。なんで日本が自分たちのために、命を懸けて戦っているのに、自分たちは何もしないのか、インド独立のために命を懸けて戦わなければならないのは、自分たち自身ではないのか、と。

 

 そしてついにインドの民衆は、武器を持って立ち上がったのです。

 

 それまでは、インド国内外の独立勢力がイギリスと戦い、一般の民衆は指をくわえてこれを見ているだけでした。

 

 しかし、インパール作戦で命を懸けて戦う日本軍を目の当たりにして、ついに一般民衆自身が、鍬や鎌や竹やりをもって、立ち上がり、イギリス相手に戦うようになったのです。

 

 のちにチャンドラ・ボースは、独立運動に際して、実際にインド国民が立ち上がり、イギリスと戦い始めたのは、日本のインパール作戦を見て、日本軍が多大な犠牲を払って、インドを救おうとしたのを見たからだ、と語っています。

 

インド独立戦争開始

 インパール作戦は失敗し、日本軍は撤退、それを追ってイギリス軍はビルマに突入しました。 

 

 このビルマに突入したイギリス軍と、チャンドラ・ボース率いるインド国民軍の戦闘が始まります。

 

 その後日本は無条件降伏し、イギリス軍がインドに帰ってきました。

 

 1945年11月、このインド国民軍の将校3人が、「国王に対する反逆罪」で、イギリスによって処刑されることになりました。

 

 これを聞いたインド民衆は、各地で蜂起し、イギリスに反旗を翻し、大暴動が勃発します。

 

 1946年、ジンナーの指揮の下、インド民衆によって、カルカッタのイギリス人が殲滅されます。

 

 これを受けて、イギリスはインドの独立を容認、翌1947年8月14日、イギリス領インド帝国は解体され、インドおよびパキスタンが独立を達成しました。

 

 

インド独立に際しての日本の役割

 

 1946年、大暴動の最中に、インド弁護士会々長のグラバイ・デサイは次のように述べています。

 

「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお蔭で30年早まった。これはインドだけではない。インドネシアベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド4億の国民は深くこれを銘記している」

 

 白人には絶対勝てないと思っていたインド民衆は、日露戦争マレー沖海戦で、自分たちでも勝てると思いなおし、インパール作戦を見て、武器を持って立ち上がることを決意しました。

 

 インド開放のためにインパールに攻め込み、散っていった日本軍将兵たちの思いはインド民衆にしっかりと伝わり、インドの独立を導いたのです。

 

 これはもちろんインドだけではありません。 元インド国民軍大佐のハビプル・ラーマンは次のように述べています。

 

ビルマインドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本がはぐくんだ自由への炎によるものであることを特に記さなければならない」

   

 日本は無条件降伏をしてしまいましたが、大東亜共栄圏の理想と、自由への炎は、アジアの人々の中にしっかり息づき、アジア各国の植民地からの独立を導いたのです。

 

 

66 二次大戦の真実9 日本は第二次世界大戦に勝利していた!? 大東亜戦争の帰趨とその後⑤ パラオ独立と植民地の消滅。

 

 

2020-09-29

 

 

相次ぐ植民地の独立

 大東亜戦勝終結後、アジア・アフリカの植民地は相次いで独立を達成しました。

 

 二次大戦終了直後の1946年、フィリピンがアメリカから独立。同年、ヨルダンがイギリスから独立。翌47年、イギリスから、インド、西パキスタン(現パキスタン)および東パキスタン(現バングラデシュ)が独立。

 48年、イギリスからビルマ(現ミャンマー)、セイロン(現スリランカ)およびイスラエルが独立。49年には、フランスからラオスが、オランダからインドネシアが独立しています。

 

その後も植民地の独立は続きます。1953年、フランスからカンボジアが独立。54年、同じくフランスから、ベトナム独立。56年には、アフリカにおいて、イギリスからスーダン、フランスからチュニジアとモロッコが独立。58年にはフランスからギニアが独立。

 その後、60年にはアフリカでカメルーンセネガルマダガスカルコンゴコートジボワール、ナイジェリアなど多くの国々が独立し、この年はアフリカの年と呼ばれるようになります。

 その後も植民地の独立は続き、結局1994年、最後に残った植民地であるパラオアメリカから独立し、地球上に植民地はなくなるのです。

 

大東亜戦争パラオの独立

 パラオは日本列島のちょうど真南、フィリピンとパフ亜ニューギニアの中間あたりの太平洋上に浮かぶ、島国です。

 

 

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 ここはそもそも16世紀からスペインの植民地となっていました。この時スペイン人が持ち込んだ天然痘によって、パラオの人口の90%が死んでしまったといわれています。

 

 その後、米西戦争に敗北したスペインは、パラオをドイツに売却します。1899年以降、パラオはドイツ領ニューギニアの一部となります。

 

 このドイツによる統治は極めて過酷なものでした。

 

 ドイツは、「産業振興」と称して、ココナッツ・タピオカの強制栽培、リン鉱石の強制採掘を行いました。しかしインフラ整備、教育などには、全くの無関心であり、現地の人々の義務教育すら行いませんでした。

 

 過酷なドイツの統治に対して、各地で反乱が勃発します。当時の様子を知るパラオ人の方は次のように述べています。

 

ポンペイ島では、強制労働への反発からドイツと戦争のような事態になりました。この件ではドイツ人の知事も殺されました。パラオの人も反乱を起こしました。あんまりひどい扱いを受けましたからね。ドイツ人はパラオの人を処刑する時はみんなが見ている前でやるんです。反乱を起こしたうちの3人のパラオ人が撃たれた。それをパラオ公園にある大きな木に吊るしたんです。日本人はそんなことしませんでした」

 

日本による統治 

 パラオの運命の転機となったのは、第一次世界大戦でした。日本は連合国の一員としてドイツに宣戦布告、パラオを含むドイツ領ニューギニアを占領します。

 

 戦後、1919年、パリ講和会議において、パラオは日本の委任統治領となりました。ここから1944年まで、パラオは日本による統治を受けることになります。

 

 日本による統治はとても穏やかなもので、例によって、日本から資金を流入させて、インフラ整備、産業振興、学校・病院の拡充が行われました。日本統治の間にパラオの人口は、2万人から5万人に増加しました。

 

 パラオの統治において特筆すべきことは、日本から多数の日本人がパラオに移住し、現地の人々と一緒に生活していたということです。

 

 現地の子供と日本人の子供が、学校で机を並べて学習し、先生はパラオ人と日本人に区別をつけず、どちらも同じように接しました。

 

 日本人の移住者はパラオ人を自宅に招き、家族ぐるみの交流を行いました。スペイン、ドイツの統治時代にはパラオ人が宗主国の人の自宅に入ることなど考えられないことだったので、パラオ人は驚きました。

 

ペリュリュー島の戦い 

 平和だったパラオも、大東亜戦争がはじまり戦況が進んでいくと、ついに戦火に巻き込まれることになります。

 

  開戦当初、快進撃を続けていた日本は、42年6月のミッドウェー海戦以降、アメリカ軍の反抗を受けることになります。

 

 44年6月のマリアナ沖海戦で、ほぼすべての空母を失ってしまった日本は、アメリカの航空戦力に対抗するすべがなくなります。

 

サイパン、グアムを占領したアメリカ軍は、9月15日、パラオに迫ります。パラオにおいては主にペリュリュー島を舞台に、10000人の日本軍と、48000人のアメリカ軍との間に死闘が行われました。

 

 これに先立ち、パラオの住民は、自分たちによくしてくれた日本軍とともに戦うと申し出ます。

 

 しかし、日本軍はこの申し出を断り、パラオ住民を洞窟に避難させ、単独でアメリカ軍に立ち向かいます。

 

 結局72日間の死闘の末、日本軍は全滅し、パラオアメリカ軍の手に落ちましたが、この戦いで死んだパラオ人は一人もいませんでした。

 

アメリカの信託統治

 戦後パラオは国連の信託統治領となり、アメリカの統治のもとにおかれました。アメリカはパラオに圧制を敷き、日本時代に行われていた産業振興のための投資はほとんど行われなくなりました。

 

 アメリカはパラオ人に対し、パラオ国内に残る日本文化を徹底的に破壊し、日本国内でしたのと同じように、日本をたたく教育を行いました。

 

 パラオ各地に残る神社を破壊し、日本が残した文書やインフラを破壊しました。

 

 学校では、「日本は自分たちの野望を満たすためにアジアに侵略した」「日本は多くのパラオ人を虐殺した」と、長期にわたって教え込みました。

 

 しかし、日本国内と異なり、パラオ人は、このアメリカの刷り込みに全く影響を受けませんでした。

 

 パラオ人たちは、「日本の統治時代だ一番素晴らしかった」「何があっても我々は日本を愛している」と、言い続けたのです。

 

パラオの独立

 パラオ住民は、静かにアメリカに対して抵抗し続けました。79年に、アメリカの核兵器持ち込みを住民投票で否決すると、アメリカは業を煮やし、81年、自治国である「パラオ共和国」を成立させました。

 

 しかしこの共和国には外交権がなく、アメリカが引き続き外交を担当し、軍隊を駐留させるという形の、傀儡国家でした。

 

 このパラオ共和国を真の独立に導いたのが、第6代大統領の中村國雄(在位1992~2001)です。

 

 ちなみに中村大統領は、日本人の父とパラオ人の母とのハーフです。パラオには今でも多くの日系人が住んでいますが、純粋なパラオ人の中にも、ハルオさんやテルコさんなど、日本人のような名前の方はたくさんいます。

 

 公用語は英語とパラオ語ですが、パラオ語には日本語由来の単語がたくさんあります。「ダイジョーブ」「アリガトウ」「コンニチハ」「アクシュ」「アツイネ」「ムリ」などの単語がそのままの意味でつかわれています。

 

 

パラオ独立のためには国連信託統治を終了させる必要がありました。1982年、アメリカはパラオとの間に50年間有効の自由連合盟約を結んでおり、これを承認しない限り信託統治は終了しません。

 

 しかしこの自由連合盟約の承認には、住民投票における75%以上の賛成が必要であり、このため過去7度の盟約承認の試みはすべて失敗していたのです。

 

 中村大統領は、92年に憲法を改正し、自由連合盟約の承認に必要な条件を住民投票における50%の賛成に修正し、アメリカと粘り強く交渉を進め、ついに94年、名訳の承認に成功、パラオにおける国連の信託統治は終了し、パラオは独立することになります。

 

 その時制定された新生パラオの国旗は以下のようなものです。

 

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パラオ国旗

  日の丸にとても良く似ていますね。

 

 青い海に黄色の満月を図案化したものです。満月は中央から少し左に寄っていますね。

 

 この国旗の元ネタはもちろん日の丸です。これは日本に敬意を表したものです。しかし日本の太陽を月に変えたのは、日本が太陽ならば我々は太陽に照らされて輝く月であるという意味だそうです。

 

 少し左に寄っているのは、真ん中にしたら日の丸と全く同じ図案になってしまい、日本に対して失礼である、という配慮からなされたそうです。

 

 最後に中村大統領の後に大統領に就任したトミー・メレンゲサル氏の日本人へのメッセージを引用しておきましょう。 

 

「日本は第二次世界大戦から今日に至るまでの年月で、敗戦から見事に立ち上がり、それどころか、産業・経済・文化など様々な分野において世界のリーダーとして活躍されています。そんな日本の皆様のバイタリティが、実は私たちの国パラオを造ったという事実をご存知でしょうか。

  終戦までの日本は、数万人に及ぶ日本人入植者を送り込み、南洋庁をつくり、私たちパラオ人のために様々な教育や産業を伝えました。それはのちに、パラオ独立のための貴重な原動力となりました。そして現在でもパラオの長老たちは、日本のことを内地と呼び、世界で最も親日感情が高い国と言っても過言ではないのです。

  多くの日本人はパラオをスキューバ・ダイビングのできるリゾート地としか思っていないような気がする。それではいけないと思う。日本の子供達にも、パラオの人々が「日本を愛している」と伝えていきたいと思います。」

 

 

第二次世界大戦における日本の勝利

 この1994年のパラオ独立をもって、地球上の植民地はすべて消滅しました。

 

 日本はアジア植民地の開放を掲げて、欧米諸国を敵に回し、大東亜戦争を戦い抜きました。

 

 日本本国はアメリカに無条件降伏をしてしましたが、日本の思いは世界に通じ、その後アジア各国が独立を達成し、植民地から解放されました。

 

 そればかりではなく、日本が大東亜共栄圏の中の国として意図していなかった、インドや、遠いアフリカの諸国まで独立を達成し、ついには地球上から植民地が一掃されてしまったのです。

 

 日本は倒れましたが、その戦争目的であった植民地の開放は、これ以上ないという形で実現されました。

 

 日本は第二次世界大戦に、完全勝利を収めたのです。

 

 

67  二次大戦の真実10 日本は第二次世界大戦に勝利していた!? 戦後の歴史戦によって日本は悪者にされた。

 

2020-10-03

 

大東亜戦争の戦果

 以上のように、日本は大東亜戦争に大勝利を収めました。

 

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 これはもちろん、戦闘そのものに勝利したという意味ではなく、本来の戦争目的であった、植民地の開放に成功したという意味です。

 

 タイ王国の第18代首相(在位:1975~76)のククリット・プラーモートは、これについて以下のように述べています。

「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。

今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体だれのおかげであるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。

12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意された日である。さらに8月15日は、われわれの大切なお母さんが、病の床に伏した日である。われわれはこの2つの日を忘れてはならない。」

  

 この言葉に、日本が大東亜戦争で何を成し遂げたのか、それを当のアジア・アフリカ諸国はどう考えているか、が集約されているように思います。

 

 前記事までに様々なアジアの指導者の言葉を紹介してきましたが、今でもアジア、アフリカ諸国の指導者、及び国民は、日本が自分たちを植民地から解放してくれたことを認識し、日本に感謝をささげています。

 

日本人の罪の意識

 しかし、日本人はこれを全く分かっていない人が多いです。

 

 まずは、戦争に至った背景や、戦争目的が分かっていない。そもそも大東亜戦争という名称や、大東亜共栄圏がどんなものかをわかっていない方が多いです。

 

 さらには日本が世界中の植民地を解放させ、欧米諸国の世界奴隷化計画を止めたということもわかっていない。最終的に日本がすべての植民地を消滅させ、戦争目的を達成したことにより勝利を収めたこともわかっていません。

 

 日本人の中には、第二次世界大戦に対して罪悪感を持っている方が現在でもたくさんいます。

 

 彼らは、日本は世界征服の野望を抱き、アジア各国を侵略し、そこでアジアの人たちを虐殺した。日本はこれを深く反省し、被害を与えた方々に謝罪と賠償をしなければならない、と考えています。

 

 これは全く事実に反した考え方です。しかし日本人の多くはこの考え方を信じ込んでしまっている。

 

 なんでこういう事態が起こっているのでしょうか。それは終戦直後のアメリカによるプロパガンダと、それによって引き起こされた歴史戦に敗れたということが大きいと思います。

 

歴史戦の背景

 過去に実際に起こった歴史的事実は1つです。しかしその事実をどう解釈するかは、人によって様々です。

 

 後世の人間たちが、事実に意味づけを与え、歴史を作ります。この意味付けが2つ以上の勢力間で真っ向から異なるときは、お互いの歴史的意味付けを宣伝しあい、多くの人に受け入れられる考え方が、歴史として採用されていきます。この過程が歴史戦です。

 

 歴史戦は近年、韓国や中国がこの単語を使ったために一般的になりましたが、これ自体は紀元前から存在します。ポエニ戦争は、カルタゴから見ると、ローマによる侵略ですが、ローマから見ると、北アフリカの安定の達成でした。結局勝ったローマがこの解釈を広め、ポエニ戦役によるカルタゴの滅亡によって、地中海の平和が保たれた、という歴史になってしまったわけです。

 

欧米諸国の視点

 二次大戦は、欧米諸国にとっては完全に鬼門でした。もしも日本の主張が正しくて、日本が欧米諸国の簒奪を受けた植民地を解放したということになってしまえば、500年間にわたって自分たちがやってきたことが悪だとばれてしまいます。

 

 彼らにとっては、何としても日本を悪者にし、自分たちが日本の侵略行為を防いだという形にしなければならない、そうでなければ、自分たちの悪事がばれてしまう、ということだったわけです。

 

ディープステートの視点

 当時からすでに欧米諸国を中心に、隠然たる勢力をもって世界を操っていたディープステートは、これについてどう考えていたでしょうか。

 

 彼らは西洋諸国を支配し、西洋諸国を植民地支配へと駆り立て、全世界を植民地化することで、世界支配を完成させようとしていました。

 

 植民に主義こそが、ディープステート世界支配戦略の第1弾だったわけです。

 

 しかし日本の抵抗により、この目論見はもろくも崩れ去りました。これは彼らにとっては大きな誤算でした。

 

 彼らの最大の誤算は、日本が強すぎたことです。ですから彼らはまず、日本の弱体化を徹底的に行いました。将来また同じことをやられたらたまったものではないからです。

 

 それと同時に、世界支配戦略を大きく変更しました。戦争による全世界の支配を試みるのをやめて、経済システムによる全世界からの収奪に方針を変更したのです。

 

 戦争による世界制覇は、日本みたいな国が出てきてぐちゃくちゃになることがあるから、リスクが高すぎる、と踏んだわけですね。

 

 このディープステートによる経済収奪システムがどのようなものであるかについては、後の記事で明らかにしていきたいと思います。

 

当時の日本の視点

 当時の日本がアメリカを中心とする西洋諸国のプロパガンダを受け入れ、戦争に対する罪悪感を抱いてしまった最大の原因は、終戦と植民地の解放の間にタイムラグがあったことだと思います。

 

 大東亜戦争終戦は1945年です。しかしその成果としての植民地の独立は、その翌年1946年のフィリピンが最初です。この後、40年代後半から50年代にかけて、アジア諸国が相次いで独立し、60年代以降にアフリカ諸国が独立します。そして最後の植民地であるパラオが独立を果たしたのは実に1994年のことです。

 

 戦闘の終了から戦争目的の完全達成まで、50年近くかかっているわけです。とくに1940年代後半の時点では、大東亜戦争は終わったものの、各国独立戦争の真っ最中で、植民地の独立は、達成できたのかどうかわからない、という状況が続いていたわけです。

 

 この時の日本国民はどういう気持ちだったのでしょうか?

 

 天皇陛下のためにすべてをささげ、父や夫が戦死し、それでも頑張ってほしいものを買わず、食べ物にも困りながら、勝利を信じて耐えてきたのに、負けてしまった。

 

 国土は焼け野原になり、戦争目的だった植民地の解放も達成できず、アメリカに無条件降伏して占領されてしまった。我々が頑張ってきたのはいったい何だったんだろう、と考えてしまったのは無理もないことだといえます。

 

 なんでこんなことになったのだろう、やはり天皇と政府と軍部が判断を誤っていたのだ、我々は彼らに騙されてすべてを失ってしまった、どうしてくれるんだ、という思いが国民の中に巻き起こっていったのは自然な流れだと思われます。

 

アメリカの行った歴史戦

 このような当時の日本国民の思いを背景に、アメリカが行った一連の情報操作は見事に日本国民の心に突き刺さりました。

 

 アメリカは、天皇陛下人間宣言を行わせ、東京裁判によって、当時の政府首脳を戦犯として処刑しました。

 

 その後アメリカは、日本国内で、「ウォーギルト・インフォメーションプログラム」と呼ばれる一連のプロバガンダ工作を行いました。

 

 アメリカのシナリオは、軍部が世界征服の野望を抱き、国民を欺き、天皇陛下や政府の意思を無視してアジア各国に攻め込み、征服して、現地住民を虐殺、略奪し、自らの野望を達成した。その野望はアメリカを中心とする連合軍によって、打破された、というものです。

 

 終戦直後の1945年12月9日より、NHKラジオで、「真相はかうだ」という番組が放送されました。

 

 これはGHQ制作の番組で、上記のシナリオをわかりやすく日本国民に向かって宣伝したものです。日曜夜八時から30分間、1948年1月まで放送が続きました。

 

 これ以外にもGHQの様々な宣伝工作によって、上記のアメリカのシナリオは日本国民の間に広く浸透し、日本人の考え方に変化を及ぼしていきました。

 

 当時の日本人は、軍部に騙され、その野望に突き合わされた結果、日本はアジア各国を侵略し、それらの諸国で虐殺・略奪を行ったと信じ込まされました。

 

 この結果、当時の日本人は、もう2度とこんなことが起きないように、軍隊を解散し、政府を厳しく監視し、絶対に他国に戦争を仕掛けないようにしなければならないと思いこみました。

 

 そして大東亜共栄圏の思想は忘れ去られ、大東亜戦争の名称は廃止され、代わりに太平洋戦争と呼ばれるようになりました。

 

 これは欧米諸国にとっては、2重の意味で都合のいい考え方です。

 

 一つは、日本国民に二次大戦において日本が罪を犯したと思い込ませることによって、自分たちが犯した植民地収奪の罪と、日本による植民地解放の事実を隠蔽することができたということです。

 

 もう一つは、戦争においてとんでもない強さを発揮した日本を封じ込め、安心して自分たちの好き放題に他国に戦争を挑めるようになったということです。

 

反日左翼と反日マスコミの誕生

 この考え方は、当時流行していた左翼思想と結びつき、世界でも珍しい反戦左翼が誕生しました。彼らは共産主義を信奉し、軍隊を持たず、非武装中立を主張します。

 

 日本以外の左翼は皆、戦争を肯定し、武力革命を掲げるので、反戦左翼というのは非常に珍しい存在だといえます。

 

その後誕生した日本国憲法にも、軍隊を持たず戦争をしないという条項が書き込まれ、彼らはこれを信奉するようになります。

 

 新聞・テレビなどのマスコミもこの思想を信奉し、政府を監視し、政府が強くなりそうになるとすかさず反対するのが自分たちの使命だと思い込むようになります。

 

 マスコミは、この思想に反することは一切報道せず、国民の洗脳に精を出すようになります。

 

 結果として、40年代後半以降の植民地の独立を、それが日本のおかげであるという事実は一切報道されず、日本国民は大東亜戦争の戦争目的が達成され、戦争に勝利したことを知らずに生活を続けることになってしまいます。

 

 そしていまだに二次大戦に罪悪感を持ち、アジア諸国に対して、謝罪と賠償を続けようとする人々が多数存在しているというわけです。

 

 これら反日左翼と反日マスコミの影響は、現在に至るまで継続し、日本国の足かせとなってしまっているのです。

 

 

68 二次大戦の真実11 日本は第二次世界大戦に勝利していた!? 立ち上がれ、日本!!

 

 

2020-10-06

 

日本に施された封印

 というわけで、日本人の深層心理に戦争に対する罪悪感が刻印されてしまい、日本は身動きできない状態に陥ってしまったわけです。

 

 しかし、この状況にも徐々に変化が表れてきています。

 

 変化の主な原因は、インターネットとSNSの普及でしょう。

 

 新聞・テレビをはじめとするマスコミは、左翼思想に侵され、日本の国益を害して国力を弱めるための報道しかしていません。

 

 しかし、インターネット上のサイトでは、真実を伝え、真に日本の国益を考える記事が多くなってきました。

 

 これを見て、真実を知り、本来の道に目覚める人たちが多数出現してきています。

 

 さらにはSNSで個人が自分の意見を即時発信できるようになったことがとても大きいです。

 

 ある事件が起きた時に、マスコミの見解が全然ピント外れなことはいっぱいあります。さらにはマスコミによって捏造された報道や、マスコミの判断で報道されない重要な事件もいっぱいあります。

 

 これらのことに気付くのは全体の5%ぐらいの人でしょうか。

 

 しかしこの5%の人がSNSでその事実を発信することにより、残りの人々が真実に気づいてしまうわけです。

 

 これは大きいですね。結局マスコミの嘘は即座に見破られ、国民が真実を把握していくのです。

 

 まだ高齢者の肩を中心に、新聞・テレビしか情報源のない方がいらっしゃいます。これらの方々は真実を知る方法がありませんので、引き続き眠った状態です。

 

 トータルで考えると、目覚めた方々はまだまだはるかに過半数には達していないかな、と思われます。

 

激動の時代へ突入

 2020年は激動の年でした。まだ3か月残っていますが、それでもここ数十年で最大の事件が頻発した年であるといえると思います。

 

 新型コロナパンデミック騒ぎに始まり、その騒ぎの裏で様々な事柄が起こっていました。

 

 別記事で詳述しましたが、パンデミックの裏で、これまで世界経済システムを操り、世界中の人々を搾取していたディープステートたちが掃討され、世界は新たなシステムの下に生まれ変わります。

 

 この新たな経済システムについては、次記事で解説していきたいと思います。

 

 しかし、現在の経済システムが崩壊し、新たなシステムが立ち上げられる過程で、これから様々な事件が起きていくでしょう。

 

 世界中で混乱が起こり、新たな争いが生じてくるかもしれません。

 

来るべき世界における日本の役割

  ここで再び日本の出番が来るでしょう。

  

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 ディープステートなき後、世界は大混乱となるでしょう。ディープステートがいなくなったとしても、世界にはまだ争いを好み、他社を支配したがる人々が数多く存在しています。

 

 放置しておくと新たな闘争が始まり、他国を次々に支配下に置こうとする国家や、他者を収奪しようとする企業が現れるでしょう。

 

 これを放っておくと、また新たなディープステートが誕生し、結局世界は元の木阿弥という事態になりかねません。

 

 ここで日本の出番です。

 

 日本人は生まれながらに、対等な人間関係の下で助け合う感覚を身に着けた人が多いです。

 

 日本国内で他国に先駆けて、個人を基盤とする上下関係のない経済・社会システムを作り上げ、それを他国に広めていけばよいのです。

 

 かつての大東亜共栄圏のように、対等な関係の下で、互いに助け合う外交関係を構築し、それを周りの国々に徐々に広げていきましょう。

 

 新たな世界の新たなルールは、日本が作り出していくのです。

 

立ち上がれ、日本!!

 これを実現するためには、日本人の皆様一人一人が目覚める必要があります。

 

 一人一人が、マスコミによって作られたブロックを外し、日本人本来の力を取り戻し、その力を世界に示していかなければなりません。

 

 かつて世界中の植民地を開放して、世界の人々を救ったように、今度は新たなスタイルを世界に広め、再び世界の人たちを救っていこうではありませんか。

 

立ち上がれ、日本!!

 

 

 

 

 

 笹原 俊さんの記事さんの様々な系列を書いてきましたがあくまで氣になつたものだけとなりますがこちらの題名の記事はここいらで幕開けとなります。ここまで見てくださりありがとうございます、皆さん。次はまとめで御會いしましょう♪