アニメーション制作会社の記入。第四章。[アニメ会社と関連する企業を記す日記。] (後半) 其之貳拾壹

 

 

 

東映

 東映株式会社(とうえい)は、日本映画の製作、配給、興行会社。2021年現在、直営の映画館2館、2つの撮影所東映東京撮影所東映京都撮影所)を保有
テレビ朝日ホールディングスの大株主であると同時に、テレビ朝日ホールディングス東映筆頭株主という株式持ち合いの関係にあり、2019年12月9日に東映の株式を追加取得し議決権比率を13%から17.77%に高め、持分法適用関連会社となった。

 

Toei logo (text).svg

 

 Ginza Toei Building.jpg

 銀座東映会館。東映本社と、同社系の映画館「丸の内TOEI1・2」が入る。撮影時、映画『相棒 -劇場版IV- 首都クライシス 人質は50万人! 特命係 最後の決断』が公開中だった(2017年3月11日撮影)。

 

本社所在地 日本の旗 日本
104-8108
東京都中央区銀座三丁目2番17号
設立 1949年昭和24年)10月1日
東京映画配給株式会社
業種 情報・通信業
法人番号 6010001034866 ウィキデータを編集
事業内容 映画の製作、宣伝、配給、興行
代表者 代表取締役社長 手塚治
資本金 117億709万2928円
発行済株式総数 1億4768万9096株
(2011年3月31日現在)
売上高 連結:1,413億7,600万円
(2020年3月期)
営業利益 連結:220億300万円
(2020年3月期)
純利益 連結:113億5,700万円
(2020年3月期)
純資産 連結:2,232億9,000万円
(2020年3月31日現在)
総資産 連結:3,003億7,900万円
(2020年3月31日現在)
従業員数 連結:1,023名、単体:322名
(2020年3月31日現在)
決算期 3月31日

 

概要[編集]

劇場用映画の制作、配給、興行を行うほか、洋画の買い付けと配給、テレビ番組の制作、広報映画の制作や教育映画の制作販売を行う総合映像企業。子会社を通じ劇場用アニメーション、テレビ用アニメーションほか各種アニメーションの制作、テレビコマーシャルなど各種コマーシャルフィルムの制作、オリジナルビデオやカラオケビデオの制作販売も行う。また、現像所も持っている。同業他社に比べて映像部門が多岐にわたる一方で、子会社を通じた事業多角化は古くから行い、かつてはプロ野球やボウリング、交通事業等を手掛け、現在もホテルやゴルフ場、不動産開発事業を行っている。また京都撮影所の一部をテーマパーク化した「東映太秦映画村」なる観光事業も行っている。

 

 

 

沿革[編集]

東京大泉の旧新興キネマ東京撮影所を買収して貸スタジオ経営を始め、やがて映画製作に進出した太泉映画1947年10月15日設立)と、1938年昭和13年東京横浜電鉄(のちの東急)の興行子会社として東急東横線の沿線開発を目的に設立され、東京渋谷横浜で映画館を経営していたが、戦後大映より京都第2撮影所(旧新興キネマ京都撮影所)を賃借して映画製作に進出した東横映画(1938年6月8日設立)、双方で製作された作品配給のために1949年(昭和24年)10月1日設立された東京映画配給株式会社が、制作会社2社を吸収合併。1951年(昭和26年)4月1日、社名を東映株式会社と改めて再出発した[4][5]。東横映画を吸収した事からもわかるように、設立の背景には東京急行電鉄が大きく関与している。阪急電鉄創業者の小林一三東宝を作ったように、五島慶太東映を作った[6][7][8][注 2]。東横映画の社長だった黒川渉三が街の高利貸しから資金を調達して映画製作を続け[5][9][10]、黒川の後を継いだ者も赤字を増やし[6][10]、設立当時の東映負債は、当時の金額で11億円(1989年頃の貨幣価値では数百億円以上[11])にのぼった[11][12][13]。当時の映画事業に融資をするような銀行はなく[14][15]岡田茂広島一中の先輩だった鈴木剛住友銀行頭取仲介して[15]五島慶太住友銀行融資を頼み[11][15][16]、東急から融資することは背任行為とみなされ出来ず[11]、五島は五島家の株式や自宅も含む全資産を担保住友銀行から融資を受けた[11][15][16]五島慶太は男の大勝負の席に息子の五島昇を帯同させ教訓を与えた[11][16]。鈴木は、昇の顔を見ながら「東映がうまくいかなければ、この借金は孫子の代まで残りますが、いいですね」と一言念を押した[11][16]。淡々と話を聞くだけで全く動じない慶太の背中に昇は身震いし「"事業家のオニ"を見た思いだった」と話している[11][16]東映メインバンクの一つが住友銀行になったのはこの時からで[15][17]、この逸話をよく知る岡田茂組合運動に熱心な野田幸男を辞めさせたかったが[17]、野田は親族住友銀行の幹部がいて辞めさせられなかったという逸話は東映内では有名だった[17]。 東横映画には、マキノ光雄根岸寛一を中心に、大陸から引き上げた満州映画協会OBが製作スタッフとして参加しており、そのまま東映に移行した彼らは松竹東宝大映に継ぐ後発映画会社である「第四系統」として誕生した会社を担うことになる[18][19][20][21]引き揚げ者の救済は社是にも掲げられ[22]、彼らはスタジオの裏に板張りの家を建てて棲みつき、炊き出しをしてノミダニと共に寝食を共にしたり[18][20][23]山陰線の脇に撮影所の廃材でバラックを造って生活する者もいた[22]。 上記のように企業としては戦後派であるが、東西撮影所は撮影所は坂妻プロ→帝キネ(以上は京都のみ)→新興→大映第二という流れを引き継いでおり、徹底して大衆娯楽路線を重視する姿勢も帝キネや新興の気風を受け継いでいる。岡田茂は「東映設立から4、5年の頑張りが、今の東映の骨格を作り上げたと言っていい」と述べている[12]

1950年代に入ると、戦前から活躍する時代劇スターの片岡千恵蔵市川右太衛門月形龍之介大友柳太朗らを擁し、さらに東映娯楽版によって若者に人気を得た中村錦之助東千代之介がデビュー。1954年(昭和29年)に松竹から美空ひばりを引き抜き大きな戦力になった[24][25][26][27]東映松竹東宝大映新東宝日活6社による戦後の激しい競争の中、1952年(昭和27年)初頭には「年間50本を製作し毎週新作1本を配給(全プロ配給)」を宣言し「製作-配給-興行」の垂直統合とブロックブッキング制を最初に敷き、撮影所システムと呼ばれる量産体制を確立した[28]1953年(昭和28年)の『ひめゆりの塔』は配収1億5000万円を挙げる空前の大ヒットで、負債はあらかた完了し発展時代に突入した[13]。続いて1954年(昭和29年)、これも他社に先駆け、新作二本立て興行を開始[29][30]東映は設立と同時に労働組合が組織され[30]、全員社員になっていたが[30]、このとき大量の臨時労働者が雇われ、無権利状態に置かれた[30]東映労働闘争はここに端を発す[30]。その後大川橋蔵や市川の息子・北大路欣也子役で加わり、東映時代劇ブームを巻き起こして、1956年(昭和31年)には松竹を抜いて配給収入でトップとなり黄金時代を築いた[18][20][24]高岩淡は1954年に東映に入社し、研修期間に東映の直営館第1号である渋谷東映もぎりをやらされたが[31]、「1日1万人もお客が入り、座れない子供たちが舞台の上まで鈴なり。後方でお父さん全部が子どもを肩車で担いでいる光景に感動した」と話している[31]。当時は"ジャリすくいの東映"といわれたが[32]、この時期、長編の添え物として製作された『新諸国物語 笛吹童子』『里見八犬伝』『新諸国物語 紅孔雀』などの中編の冒険時代劇は児童層から熱狂的に受け入れられ[33] 中村錦之助東千代之介といったアイドルを生み[33]東映動画東映まんがまつりと合わせ、子どもたちに娯楽版で映画館通いを覚えさせ、未来の観客を作り育てた[33]。時代劇ブームの波に乗り隣接地を買収に次ぐ買収で3万坪に拡大した[31]。量産ぶりは凄まじく1959年に東西両撮影所で、年間103本の映画を製作し[30]、1960年170本[30][31]。二日に一本の滅茶苦茶なペースで映画が量産され[30]、1960年の大手六社の製作総本数522本のうち、三分の一が東映映画が占めた[30]。専門館は1,500館[31]、契約館は全国2800館[31]、年間配収は当時の金額で97億5千万円に上った[31]

しかし、明朗な勧善懲悪の東映時代劇は1960年代に入ると行き詰まり、末期にリアリズムの集団時代劇を生み出すものの終焉[34][35]。映画不況が始まった1960年代に入ると時代劇は客が入らなくなり、コストダウンのため1963〜64年にかけて、東映京都撮影所の大リストラを敢行し、東映テレビ・プロダクション東映動画へ大半の従業員が配転される[3][18][36]。また取締役俳優である片岡と市川は取締役の地位は留任するもの専属契約が切られ、市川は映画から引退。演出料が非常に高い渡辺邦男松田定次佐々木康などの時代劇の監督も東映を退社して行った[5][18][36][37][38][39]

現代劇は1950年代半ばから1960年代前半にかけて、中原ひとみ高倉健水木襄佐久間良子梅宮辰夫千葉真一主演スター東映ニューフェイスから輩出。1957年昭和32年)には東映東京撮影所の隣に動画専用スタジオを建設し、前年に日動映画を合併して設立した東映動画を移転させた[4]1958年(昭和33年)には競合会社よりもいち早くテレビ映画の製作に着手。同年に大泉に東映テレビ・プロダクションとその撮影所を設ける[4]。観客動員No.1となった東映1960年昭和35年)に第二東映を設立し[4]、制作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指した[36]。同年に第二東映新東宝を吸収合併し、時代劇を新東宝が現代劇を第二東映が制作する新会社の東映の設立が仮調印直前まで進むも頓挫[40]。翌1961年に第二東映ニュー東映と改称するが、うまくいかずに2年で解散した[24][30]。重役だった片岡千恵蔵は大川に面と向かって「これはあんたの責任じゃないですか!」と責め立てた[24]。映画産業の斜陽化が色濃くなった時代に無謀な計画は大失敗し[30]、会社は労働者の分裂と合理化の攻撃を強化し、労使は激しく対立した[30]。また元々映画はズブの素人だった大川から[13]、以降、映画製作の実権は東映西撮影所の所長が握る体制が生まれた[41][42]

1963年(昭和38年)『人生劇場 飛車角』のヒットからは時代劇に代わり[43]、明治期から昭和初期を舞台に置き換え、勧善懲悪の世界を描いた時代劇の変種でもある仁侠映画を東西両撮影所で量産し[18][36][44][45][46][47]鶴田浩二高倉健藤純子若山富三郎らを主演に立て隆盛を迎え、1960年代は映画興行では他社を圧倒した[5][18][48][49][50]

1970年7月で直営館を含めた東映作品しか上映しない専門館が全国で250~260館、東映がイニシアチブを執る割番専門館を合わせると340~350館[51]。当時の地方の映画館の中には、東映と松竹の映画を一緒に上映したり、劇場主が勝手にプログラムを決めるような小屋があり[51]、これを実態のつかみにくいフラット館と呼んだが[51]、この小屋も東映作品を掛けるため、当時東映のフィルムを掛ける映画館は全国で1100~1200館あった[51]第二東映は失敗したが、そのとき増えた専門館のシステムは残った[51]

1973年の『仁義なき戦いシリーズ』でヤクザ映画を実録ものに切り替える。格闘映画では千葉真一志穂美悦子の作品がブレイクし、千葉の格闘映画は海外でも大ヒットした[53][54][55][56]プログラムピクチャーとしてのヤクザ映画路線は1977年に終了した[57][58]。正統的教養主義と闘うカウンターカルチャーが世界中で沸騰した1970年前後[59]、日本の娯楽映画の拠点は東映にあった[20][59][60][61]。1975年(昭和50年)に新たなジャンルであるパニック映画新幹線大爆破』を公開したが、日本ではヒットしなかったものの、海外では大ヒットした。同年の『トラック野郎』は『新幹線大爆破』よりヒットしたため、シリーズ化された。

この間、1954年(昭和29年)にはプロ野球東急フライヤーズの運営を東京急行電鉄から受託し、東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)とした。また、1959年(昭和34年)開局の日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)に資本参加し同局番組の有力な供給源となるなど、来るべきテレビ時代に先手を打った。ところが、1964年(昭和39年)9月30日には資本面で東急から分離独立する。この背景には嫌々ながら東映の社長に派遣され、多重債務を抱え自転車操業で倒産寸前だった同社の再建を成功させた大川博と、東急本体を引き継ぎ東急グループの基本を沿線開発に据えた五島昇との間に確執があったと言われている。また、石坂泰三が彼に「東急に女を売り物にする商売はいらない」と言ったと言われている。東映フライヤーズは引き続き共有の形を採った。ただし、2014年現在も東京急行電鉄は第5位株主であり、また関係会社ではある。

1966年(昭和41年)、日本教育テレビ持株の半数を朝日新聞社へ譲渡し、成績不振と黒い霧事件の余波で観客数が伸び悩んでいた東映フライヤーズを東急と共に1972年(昭和47年)オフに日拓ホームに売却[62][63]。また1960年代後半の多角経営を支えたボウリング事業は1976年2月に完全撤退した[3][63]。その一方で、ゴルフ場シティホテル建設や不動産分譲、撮影所余剰地の複合施設開発(ショッピングセンターなど)など新規事業を開拓して事業の再構築を行った[4][64]。1960年代半ばから映画の斜陽化が顕著になると、ヤクザ映画で観客動員を保つ一方で、岡田茂1971年社長)は、テレビに取り込まれない客層を狙い実録ヤクザものやエログロもの(東映ポルノ)を量産した[3][5][37][65][66][67]。岡田は「路線は少しづつ変わってもいいが、野性味を失ったら、東映という会社はダメになってしまうんだ」と述べていた[12]。岡田の社長就任で大手映画会社で東映は唯一、実質オーナーのいない会社になり[68]、結果的に岡田が長く居座ったが、役員の中に自分が次期社長になれるかもしれないと仕事のやる気も上がった[68]

映画部門が斜陽となってからは、アニメ部門テレビ事業部ビデオ部、不動産部門などが、映画製作を支えて行く。1988年4月~1999年3月期決算で映画会社単独として初の年間売上げ1000億円を達成した[80]。映画不況といわれた1980年代は、東映東宝、松竹の大手三社はリスクの大きい映画製作に注力したわけではなく[70]、ビデオや不動産を中心とした多角経営戦略で利益自体は上げていた[70]。1990年代は渋谷を始め、船橋、福岡、仙台、広島など、全国の劇場再開発を手掛けた[71][80][81]1972年東映洋画を設立し[3]、洋ピンと呼ばれる欧米のポルノ映画を配給したのを手始めに[4][82]1975年の『ドラゴンへの道』や1979年の『ドランクモンキー 酔拳』などブルース・リージャッキー・チェンといった香港映画を中心に配給[3][83]東映洋画部ではその他にも1977年から『宇宙戦艦ヤマト』シリーズなどアニメ映画を配給して[84]、邦画部門の不振を補ったほか、劇場用映画以外にテレビ映画の制作にも積極的に取り組んだ。時代劇が斜陽になったことから1975年(昭和50年)に京都撮影所のオープンセットの維持を画して、一部を東映太秦映画村とした[3][36]

多くの映像作家を生み出した『ぴあフィルムフェスティバル』(PFF)は、1977年12月に東映東京撮影所で開催された『第一回ぴあ展』を起源としている[85][86]

1978年正月公開の『柳生一族の陰謀』から従来の量産体制による2本立て興行に代わって、大作映画1本立て長期興行路線が定着。それとともに、子会社に東映セントラルフィルムを設立して同年に『最も危険な遊戯』を第1作として公開[87]。1988年に解散するまで本社の大作路線を補完する中小規模予算のプログラムピクチャーの製作会社として、あるいは外注したピンク映画の配給会社として活動した[88][89][90]。1970年代後半から映画プロデューサーとして角川春樹と提携し、『悪魔が来りて笛を吹く』、『白昼の死角』、『魔界転生[91] を手始めに、角川映画を数多く配給し始める。1980年代に入ると提携作品や小屋(映画館)を貸すだけの買い取り作品などが増え、純然たる東映作品、純然たる東映育ちのスタッフ、キャストが作る作品が減った[92]

東宝は1943年の東宝争議終結以来、ほぼ一貫して、左翼的な政治性を嫌い、エロチシズムを嫌い、暴力を嫌う『健全娯楽』路線を守ってきた[20][93]東映が暴力を鮮やかに映画的な魅力に結晶させた時期に、東宝はずっと作品的にも興行的にも東映の後塵を拝していた[93]東映の路線に乱れが生じ、行き詰ったとき東映は『健全娯楽』の東宝に抜かれることになる[93]

1960年代から始めていた東映まんがまつりは子供向け映画として定期興行をしていたが、1996年平成8年)からは凋落していった[94]。洋画配給についても1987年の『七福星』をもって中止となった[83]1980年代角川映画やアニメのおかげで東宝と互角の勝負をした[95]東映ビデオの売上大幅増が効いて[24][96]東映の第64期決算(1986年9月1日~1987年8月31日)は映画会社で初めて総売上1000億円を記録し[80][96]東映は映画会社で売上トップになった[80][96][97]1990年代に入ると、アニメ映画とシリーズものが全盛期が過ぎたこと、『公園通りの猫たち』に代表される企画製作能力の機能不全、ヤクザ路線の行き詰まり、自社のブロックブッキングの強化が遅れ、東宝と拮抗していた興行成績が引き離されていった[98][99]岡田茂がプロデューサー出身であることから[95][100][101][102]、自社制作にこだわってきた東映と差が付いた[69][95][103][104][105][106]東宝は1968年から1972年まで製作配給で毎年7億円の赤字を出していたが[49]、1970年代に入り製作機能を三つの別会社に分離し1972年に本社での映画製作を停止させ、五核を相互に連携させる製作体制に切り替えた[30][49]。1970年代後半から、東宝はリスクの高い制作への投資を削って劇場整備に力を注ぐ手法を取り[18][30][49][71][103][106][107]、映画業界では当時「映画会社でなく不動産業者のやり方」などと風当たりは強かったが[103]、自社制作にこだわってきた東映と差が開いていった[103][106][108][109]東宝は元来が製作から発足した映画会社でない強味もあり[104]、また他の映画会社と違い、阪急グループの中に位置し[110]金融もある程度阪急の裏づけがあってやれるという強味があった[110][111][112]東宝は阪急グループの文化商品提供部門という側面を持つ映画産業の不沈戦艦でもあった[112]岡田茂は1998年6月2日の『日本経済新聞』で「二十年たって振り返ると東宝のやり方は正しかったのかもしれない」と述べた[103][106]。松竹に言わせれば「ウチは製作から出発してますけど、東宝は興行からの出発ですから。会社の性格が違います。あの劇場網は羨ましい」となる[113]東映も1990年代に「列島改造計画」などと名付け[114]、渋谷を始め、全国の劇場再開発を手掛け[80][114]、岡田は「今後は映画興行にプラス賃貸収入で収益を図っていく」と宣伝したが[114]、いかんせん、一等地に先代が仕込んでくれて減価償却を終えた大きな土地・建物を持つ東宝や松竹は[110][115][116]、それを利用して高層ビルを建てて、不動産賃貸料で大きな利益を出せるが[110][115][116][117]、戦後の会社である東映は代替地もままならぬ程、所有する土地が小さく、賃貸収入でも東宝や松竹と大きく差を付けられた[110][116]東宝日比谷の映画街を再開発して1987年10月にオープンした日比谷シャンテ賃貸収入が年間30億円といわれ[118]、当時東映は不動産の賃貸収入がほとんどなく[119]、これに驚いた岡田茂は「シャンテに続け!」と「東映本社丸の内に置かなくてもいいだろう」と丸の内から茗荷谷へ本社を移転させて跡地に賃貸ビルを建て、賃貸料を稼ごうと構想したが実現はしなかった[118][119][120]

1989年(平成元年)からはオリジナルビデオ東映Vシネマ」をリリースすることで映画の制作数を補うなど、スクリーン以外での映像展開を積極的に進めて対応を図っている[44]

2011年9月17日の『アジョシ』から、国際営業部が新レーベル「TOEI TRY△NGLE」(東映トライアングル)で約30年ぶりに日本国外映画の買い付けと配給を再開した[83][121]

社風[編集]

東映は、経理畑出身の大川博による徹底した予算主義と、徹底作品中心による大衆路線を採用した[122][123][124][125]。無駄なフィルムを使うと即座に始末書を書かされたと言われる[126]

スター・システム撮影所システムによって、特に時代劇全盛期には、序列化されたスターを頂点としてスタッフと俳優が派閥化されていた[127]。スターについても男性スターが中心で、女優はいわゆるお姫様女優であった[127][128][129]岡田茂造語である[24]「不良性感度」という言葉は[50][130][131][132][133]、時代劇ブームが終焉した1960年代半ばから、ヤクザ映画とアウトローによる暴力路線、アクション映画エログロなど犯罪・暴力をモチーフに量産され、東映イメージを決定付けた[20][37][43][44][46][65][134][135]。しかし「不良性感度」を標榜した路線は女優の受け皿を狭めることとなり、関根恵子東映に誘われても断っている[136]。1970年代半ばからの実録路線以降から男性客がメインとなり[137]、対照的に女性客は離れていく[138]。この路線は1980年代後半の『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズまで続いた[139]

俳優の専属制度も大手では最も維持された。千葉真一松方弘樹梅宮辰夫ら昭和十年代生まれ世代の俳優たちにまで「もと東映仲間」というカラーが現在も強く残っている。これも、1970年前後に自社製作も専属制も事実上白紙にしてしまった東宝や、同じころから渥美清ハナ肇ザ・ドリフターズ石坂浩二ら舞台、テレビ出身の社外俳優に依存するようになっていた松竹などと一線を画している。

おしゃれなデートコースとしての映画館という風潮とは対極に位置することもあり、早々に自社製作を事実上中止した東宝とは対照的にテレビ、アニメを含め徹底した自社製作を貫いてきた。

オープニング[編集]

東映映画のオープニングといえば3つの岩に荒波が打ち付け、三角形のロゴマークが飛びだすシーンである。3つの岩は、東映の前身である東京映画配給、太泉映画、東横映画の3社の統合と結束をイメージしている。社内での正式な呼び名は「荒磯に波」である。撮影場所は千葉県銚子市犬吠埼とされている。1955年(昭和30年)公開の『血槍富士』で初めてオープニングに登場し、1957年昭和32年)公開の『旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷』から毎回使われるようになった[140]。現在使われているものは4代目になり、水中をイメージしたCG画面が現れた後、一転して荒波が岩にかかるおなじみのシーンに変わる。また、4代目からは「TOEI COMPANY,LTD.」と社名の英語表記も追加されている。基本的なオープニング構成は半世紀以上変わっていないため、バラエティ番組やアニメ(系列の東映アニメーション制作作品)などでパロディにされる事もある。

第二東映ニュー東映のオープニングは活火山噴火口をズームアップし、三角形のロゴマークが飛びだすシーンで、海と山を対極にしたものとなっている。

基本的に同時代に公開された作品は、全て共通のオープニングの映像が用いられている。例えば、深作欣二の『火宅の人』で作品内容に沿うように木村大作日本海で新たに撮影したオープニングを使おうとしたところ、岡田茂社長から「会社の顔を変えるとは何事だ」と一喝されて、却下された[141]。例外として、中島貞夫の『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』は、当時スタンダード・サイズのオープニングが紛失していたため、銚子の灯台で撮り直されている[142]

1970年代のヤクザ映画全盛期には、莫大な興行収入を得ながらもスタッフやキャストへの金払いが悪かった事、強引なブッキングを強いた事などから、「東映の三角マークは義理欠く恥欠く人情欠くの三欠くだ」と揶揄された。この言葉を誰が最初に言ったのかは不明だが、文献では『週刊映画ニュース』1972年12月2日号に東映三越劇場提携公演の司会をした山城新伍がこの言葉を発したという記事がある[143]

テレビ[編集]

歴史[編集]

映画と並び会社の中核とされるのがテレビ向け作品である。

映画会社の中では東映がテレビに最も積極的であり、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)の設立にあたっては資本参加をし、1958年(昭和33年)5月にテレビ課を設けた。さらに1958年(昭和33年)7月に東映テレビ・プロダクションを設立して、東京撮影所と京都撮影所でテレビ映画の制作を開始した。1959年(昭和34年)2月から放送開始の『風小僧』がその第1弾である。初期においては制作したテレビ映画は放送の3ヶ月後に劇場向けの添え物として再編集し、東映特別娯楽版として配給も行う再利用も行っていた。そして1961年昭和36年)にNETとテレビ映画制作の業務提携を結び、1969年(昭和44年)には年に35シリーズ、826本を制作した[144][145]

株式会社東映テレビ・プロダクションは、放送したテレビ映画を劇場向けに配給するために1959年(昭和34年)2月に東映テレビ映画株式会社と商号を変更し、さらに5月に第二東映株式会社となったため、1959年(昭和34年)11月に新たにテレビ映画制作業務を行う法人としてかつての社名と同名の株式会社東映テレビ・プロダクションを設立した[146]。1964年には、東映京都撮影所の敷地内に東映京都テレビ・プロダクションが発足[147]

東西の東映テレビ・プロは、NETが50%資本参加したために原則として筆頭株主であるNET専門の制作であった[148]東映本体も、1960年代半ばまでは業界的にはNET系のプロダクションと見られていた(実際には東映の方が大株主)と、キャラクター作品担当のプロデューサーだった平山亨は後年、雑誌『宇宙船』で回顧している。逆にNETの側は基本的に外注は東映が独占するという取り決めがあった[149]。NET以外の他局には、東映東京撮影所内に新たに設けられた東映東京制作所と、京都では京都撮影所とは別機構として設けられた東映京都制作所の両制作所が制作を請け負うことになった。京都制作所は後に東映太秦映像と改称された[150]

東映京都テレビ・プロは時代劇や近代もの、京都が舞台の現代劇を、東映太秦映像は別会社の制作下請けを、東映東京制作所(大泉および生田スタジオ)は主に特撮キャラクターもの等子供向けの作品を、東映テレビプロ(大泉)は主に刑事ドラマ等大人向けの作品を、それぞれ鎬を削りながら量産を続けた。劇場映画においても早くから、時代劇をはじめ、『警視庁物語シリーズ』、『少年探偵団シリーズ』など、のちテレビで主流になるような娯楽分野で多くのノウハウを積んでいたことも大きな強みとなった。ライバルの東宝のサラリーマン物や喜劇、特撮物、松竹のホームドラマやメロドラマが、そのままテレビにスムーズに活用できているわけでない点と比較しても、同社のテレビ展開の速度は群を抜いていた。

テレビ参入当初からテレビ時代劇は、1959年(昭和34年)のNETの開局からレギュラー枠として制作が続けられて一時は大きな柱だったが、時代劇の減少に伴い、東映京都撮影所の本編スタッフが時代劇も手がけるようになり、1988年(昭和63年)の『名奉行 遠山の金さん』の第1シリーズが終了した時点で時代劇を主としてきた京都の東映京都テレビ・プロは解散[151]。さらに2007年(平成19年)9月をもってテレビ朝日東映制作のレギュラー時代劇は消滅している[152]

1964年(昭和39年)から映画館で上映されていたプログラム「東映まんがまつり」では子供向けのアニメや特撮などのテレビ作品はテレビからのエピソードがそのまま上映されていたが、1980年代頃からは新作が増えてテレビの再利用はなくなっていった。

 

放送枠[編集]

ここでは実写番組のみを記載し、アニメ枠は除く。

 

 

主要テレビ作品[編集]

1950年代[編集]

1960年代[編集]

1970年代[編集]

1980年代[編集]

1990年代[編集]

2000年代[編集]

2010年代[編集]

海外作品[編集]

 

 

系列会社[編集]

ほか数社

 

 

 


 

東宝

 

東宝株式会社(とうほう)は、映画演劇の製作配給・興行や不動産業を行う日本企業

阪急阪神ホールディングス持分法適用会社で、2019年現在、2つの直営演劇劇場(帝国劇場、新館シアタークリエ)を保有する。阪急阪神ホールディングス阪急電鉄阪神電気鉄道)、エイチ・ツー・オー リテイリング阪急百貨店阪神百貨店)とともに、阪急阪神東宝グループの中核企業となっている。本社は東京都千代田区有楽町一丁目2番2号。

他の阪急阪神東宝グループ同様三和グループのメンバーであるが、阪急電鉄と異なり三水会には参加せず、みどり会のみに参加している。

 

Toho logo (text).svg

東宝日比谷ビル(2018年4月30日撮影).jpg

 東宝日比谷ビル(2018年4月30日撮影)

 

 

本社所在地 日本の旗 日本
100-8415
東京都千代田区有楽町一丁目2番2号
東宝日比谷ビル10階から12階
座標北緯35度40分23.0秒 東経139度45分35.8秒
設立 1932年昭和7年)8月12日
株式会社東京宝塚劇場

 

 

主要株主 阪急阪神ホールディングス 12.06%(持分法適用会社
阪急阪神不動産 8.01%
エイチ・ツー・オー リテイリング 7.23%
主要子会社 東宝映画 100%
東宝東和 100%
国際放映 100%
東宝芸能 100%
TOHOシネマズ 100%

 

 

歴史[編集]

発足と急成長[編集]

1932年8月に阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の小林一三によって、演劇、映画の興行を主たる目的として株式会社東京宝塚劇場を設立。1934年東京宝塚劇場を開場の後、有楽座、日本劇場帝国劇場を所有し、日比谷一帯を傘下に納め、浅草を手中に収める松竹とともに、東京の興行界を二分するに至る。

一方、会社設立前年に創設された、トーキーシステムの開発を行う写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称 PCL)は、1937年関連会社JOと合併し、東宝映画株式会社となる。1943年8月30日、東宝映画を合併し、映画の製作・配給・興行および演劇興行の一貫経営に乗り出し、同年12月10日に社名を東宝株式会社と改めた(本社は旧東宝映画があった銀座7丁目大日本麦酒本社内)。PCLには大日本麦酒なども出資しており[† 1]東宝は発足当初から、従来の市井の興行師からスタートした映画会社とは一線を画する、財界肝いりの近代企業として期待と注目、そして反発を集めた。なお、その名前の由来は「塚」の略である。

戦中、東京宝塚劇場と日本劇場は風船爆弾工場となり、戦後は東京宝塚劇場進駐軍専用のアーニー・パイル劇場と改名され、10年間観客としての日本人が立入禁止となるなど、歴史の証人を演ずることになる。

林長二郎事件[編集]

東宝は設立時、天下の二枚目こと松竹林長二郎をはじめ、多くのスターを驚くほどの高給で他社から引き抜いた。

1937年11月12日、長二郎が、左顔面を耳下から鼻の下にかけて斜めに切りつけられ、骨膜に達する重傷を負う。犯人のヤクザ松本常保[2]は、同年秋、長二郎が松竹から東宝に移籍したことから、松竹系の新興キネマ京都撮影所長の永田雅一らに教唆され、犯行におよんだものと判明した。

松本はこの事件で実刑を受けたが、後に刊行した自伝「みなさんありがとう」において「犯行に荷担していない」と表明している。事件後、長二郎はこの名を松竹に返し、本名の長谷川一夫を名乗るようになった。

プロデューサーシステム[編集]

東宝の資本とPCLの技術の上に映画の興行面で変化をもたらしたのは、製作における予算と人的資源の管理を行うプロデューサー・システムの本格的導入であり、これをもたらしたのがアメリカ帰りの森岩雄とされる。松竹の城戸四郎、日活の根岸寛一と並び称される森だが、この分野における足跡は大きい。

東宝は、PCL時代より民主的な社風で知られ、監督や大スターでも個室がなく、大物に対しても「さん」付けや「ちゃん」付けであった。巨匠監督も部下の助監督や名もない俳優を「さん」付けや「ちゃん」付けで呼んだ。また東宝歌舞伎の因習やヤクザっぽい親方子方気質を引きずった、他の映画会社の封建的な体質を公然と批判し、他社のようにスタッフや俳優を縁故採用に頼るのではなく、公募を戦前より行い、優秀な人材を得た。しかし、獲得した優秀な人材は戦後の東宝争議の中心メンバーとなったため、後に縁故採用を強化し、権力に逆らわない人材を入れる傾向に変わっていった。

東宝争議とその後の混乱[編集]

1946年から1950年にかけて経営者と労働組合の対立が激化し、そんな最中、1948年3月4日に本社を東宝文芸ビルに移転。だが同年6月1日には撮影所を占拠した組合員を排除するため、警視庁予備隊、果ては占領アメリカ軍戦車戦闘機まで出動する騒ぎになる。これが「来なかったのは軍艦だけ」と言われた東宝争議である。

この間、大河内伝次郎長谷川一夫入江たか子山田五十鈴藤田進黒川弥太郎原節子高峰秀子山根寿子花井蘭子の十大スターが結成した十人の旗の会と、反左翼の渡辺邦男をはじめとする有名監督の大半は、1948年4月26日に第三組合によって設立された新東宝(4月26日には系列会社・国際放映も設立)で活動することになる。そのため東宝は再建不能と言われ、1949年3月15日に映画制作は新東宝に任せ、東宝は配給部門のみ受け持つ方針が真剣に協議されたこともあった。

大スターや大監督がごっそり辞めたことで、入社したての三船敏郎らがすぐに主役として抜擢され、若い監督も活躍の場を得やすい状況になった。残留組イコール左翼的という単純な色分けはできないが、共産党員の多くは放逐され、新東宝はまもなく東宝と絶縁して独立会社となったため、比較的リベラルだが政治には深入りしなかった人材が多く残ることになる。新東宝は独立後、文芸映画路線が不振で経営がすぐに悪化、新社長に迎えた大蔵貢の低予算通俗映画路線で一時的に持ち直したものの、1961年倒産。市川崑など一部のスターや監督はそれより遥か以前、完全独立の前後に東宝に復帰していた(市川はほどなく新生日活へ移籍)。

日本映画黄金時代[編集]

1950年代に迎えた日本映画の黄金時代に際し、1957年からは「東宝スコープ」を採用し、『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』などの黒澤明作品や『ゴジラ』や『モスラ』などの円谷英二による特撮作品を始めとする諸作品によって隆盛を極め、映画の斜陽化が始まった1960年代にもクレージー映画若大将シリーズでヒットを飛ばす。また、社長シリーズ駅前シリーズ(これらは東宝四大喜劇シリーズとも呼ばれている)など安定したプログラムピクチャーの路線を持っていたことも強みであった。財界優良企業らしく健全な市民色、モダニズムを鮮明な作品カラーとし、日本映画が暴力、猟奇、エロティシズムに傾斜していく中でも東宝はそれらの路線とは一線を画し、距離を置いた。上記のシリーズ物が定着する前は現代アクション物も得意とし、後年も『殺人狂時代』、『100発100中』などの異色作に名残を残す。これらは興行的には伸びなかったが、その後の再上映でカルト的な人気を誇った。

1959年にはニッポン放送文化放送、松竹、大映と共にフジテレビを開局。テレビにも本格的に進出する。

映画製作部門の大幅縮小[編集]

1960年代から映画は斜陽産業と言われるようになり、東宝も顕著な観客減少に悩んでいたが、大規模な量産体制を他社と共に保っていた。しかしカラーテレビの普及が本格化した1970年代になると観客減少は更に深刻な状況となり、大映は倒産、日活ポルノ会社に転向。東宝もこの危機を脱するため、前述の東宝四大喜劇シリーズを全て終了するなど1972年に本社での映画製作を停止し五社協定が終焉する。製作部門を分離独立させて発足した「東宝映像」(現在の東宝映像美術、設立1971年、社長田中友幸)と傍系会社の「東京映画」(のちの東京映画新社、設立1983年、社長川上流一)、「東宝映画」(設立1971年、社長藤本真澄)、新たに設立した製作会社「芸苑社」(設立1972年、社長佐藤一郎)、「青灯社」(社長堀場伸世)を5つの核とした製作体制に切り替えた。ただし、専務取締役の藤本をトップに据えた(まもなく田中友幸に交替)東宝映画ですら年に数本、他は芸苑社と東宝映像が年1、2本しか稼働せず、事実上この分社化をもって東宝の自社製作体制は幕をおろすことになる。不採算作品が多くリスクの高い製作部門の停止に伴い、外部からの買取作品・委託引受け作品の配給に力を入れ、自社の興行網を維持する形に転換。

事実上、映画製作会社の看板を降ろし、配給や不動産部門、芸能事務所である東宝芸能へ軸足を移しながら経営の合理化を進めた。ただし阪急グループとしてのイメージや、駅から近い一等地に座席数の多い一流映画館を多く持つため、同業他社のようなポルノ映画ヤクザ映画の製作は行わず、そのような外部製作品を配給することも少なかった。この時期、「東宝の映画館なら家族連れやアベックでも安心」といったイメージを死守したこと自体は、現在の東宝の繁栄の伏線となっている。しかし予算的には非常にタイトとなり、今日でも評価の高い山本迪夫監督の怪奇映画の多くは二本同撮で作られ、ゴジラ映画は音楽や着ぐるみの使い回しが目立つようになった。

映画製作本数が急激に減った分、テレビ部の奮闘が目立つようになり、『太陽にほえろ!』、『俺たちは天使だ!』などがヒット。ただし、70年代までは砧撮影所は使用せずに国際放映円谷プロを制作協力のクレジットで孫受け発注したり、スタジオを持たない円谷プロの場合などは東京美術センターなどの傍系スタジオを使用するケースが多かった。東宝配給の劇場映画も実際は大映京都撮影所勝プロダクション作品など)や日活撮影所石原プロモーションホリプロ作品など)で製作するものが増えた(これらの映画は監督やメインスタッフも大映系、日活系が殆どである)ため、砧撮影所は急速に稼働率が低下、人員も離散した。大ベテランの岡本喜八堀川弘通両監督を解雇した1977年を一時代の終焉と見ることもできる。

それでも1980年代半ばまでは、東宝シンデレラコンテスト出身の東宝芸能所属タレントで人気アイドルだった斉藤由貴沢口靖子主演のアイドル映画を東宝映画が製作するなど、独立プロダクション程度の活動は継続していた。そしてこの時期からアニメーションの製作にも関与するようになる。一方で、1969年 - 1978年東宝チャンピオンまつりとして子供向け映画を上映した。 また、この時期はバブル期であり、そのためか日劇渋谷東宝会館日比谷映画劇場有楽座梅田劇場、北野劇場などが建て替えられ映画興業以外もおこなう複合施設となり、資産価値を増加させている。

現在[編集]

1990年代に入ると、自社(株式会社東宝映画)での邦画製作は「ゴジラ シリーズ」を除き行われなくなり、主にテレビ局(特に資本関係の強いフジテレビとの提携が中心)や外部プロダクションが製作した映画を配給し、成功を収めた。

2000年以降は、ワーナー・マイカル・シネマズが優位に立っていたシネコン市場に本格的に参入し、2003年のヴァージン・シネマズ・ジャパン株式会社(現・TOHOシネマズ株式会社)の買収で、グループ企業のスクリーン数では第1位を誇っていた(2019年現在ではワーナー・マイカルの後身であるイオンシネマが第1位)。

その後も日本映画界や興行界に不動の地歩を占め続け、現在に至っている。製作会社(テレビ局が多い)も大予算をかけた自信作は興行に強い東宝へ配給委託し、それがまた数字を積み上げるという好循環が重なった結果、平成期以降は一人勝ち状態が定着、21世紀にはさらに独走の幅を広げた。1980年代前半までライバルとして競り合ってきた東映や松竹(特に東映は70年代までは映画配給収入でおおむね東宝の上位に位置していていた)は、今では二社の興行収入を合わせても東宝の数分の一である。

また、かつて映画館用地として購入した全国の一等地の物件の賃貸を中心とする不動産事業も、営業利益のうち約4割を占め、地味ではあるが、業績を下支えする安定した重要な事業になっている[3]

なお同社は大手映画会社としては唯一撮影所出身の社長が存在しなかったが(経営陣待遇の大物プロデューサーと言われたうち、森岩雄藤本真澄は副社長、田中友幸東宝映画会長どまり)、2002年に初のプロデューサー経験者(キャリアパスとしての短期間ではあるが)として高井英幸が社長に就任した。

近年は、東宝本体で製作委員会に参加するなど、映画製作において積極的な姿勢をとっている。また砧撮影所の空洞化や技術伝承の中断に危機感を持ってレンタル展開を積極化。単独出資での「東宝映画」はほぼ絶えたものの、製作参加・配給・撮影所供給といった形で東宝カラーを打ち出し、守る方向が試されつつある。

2013年には『アニメ事業室』を新設、同時に自社音楽レーベルも立ち上げ、自社企画でのアニメ事業の強化に乗り出している[4]

2020年12月1日東宝映画と、東宝スタジオを管理する「東宝スタジオサービス」を統合し「TOHOスタジオ株式会社」を設立。当該会社で撮影所管理とプロダクションの両方を行い、制作準備から撮影・仕上げまでをワンストップで提供できる体制となる。

 

 

オープニングロゴ[編集]

中央に放たれる光の中心にロゴマークが配され、下部に黄文字で「東宝株式会社」と横書きされる(初期のカラー作品は「東宝株式会社製作」になっている)。東宝スコープ作品では東宝マークの左右に黄色いゴシック体の立体処理で「TOHO」「SCOPE」と配されていた。北米公開時には東宝マークの中に「TOHO」のアルファベットが入り、下部の社名表記が「TOHO COMPANY, LTD.」に変わる。円谷英二によってデザイン・制作されたものであり、1992年の創立60周年以降はそれまでの実写・光学合成による映像に代わり、CGで制作されたものが使用されている。

映画館[編集]

東京、名古屋、大阪、京都の主要館をかつては直営として経営していた。1990年代末期以降、本社地区は東宝サービスセンターに、関西地区は東宝ビル管理に、中部地区は中部東宝に運営を委託。2006年以降、東宝グループの映画興行をTOHOシネマズに集約することになったため、現在は東宝の直営館は存在しない。以下、東宝直営館として閉館した映画館を示す。傍系の映画興行会社が経営していた映画館は六部興行を、TOHOシネマズに移管した映画館はTOHOシネマズを参照のこと。

本社地区[編集]

  • 宝塚会館東京都千代田区有楽町1-12) <1934年1月1日開館、1997年12月29日閉館>
    • 東京宝塚劇場(宝塚会館 1階)<1934年1月1日開館、1997年12月29日閉館>
    • スカラ座(宝塚会館 4階)<1940年4月16日開館、1955年7月13日改装、1997年12月29日閉館>
    • 東宝演芸場(宝塚会館 5階)<1938年9月23日開館、1955年8月1日改装、1997年12月29日閉館>
      • スカラ座の当初の名称は東宝四階劇場。東宝演芸場の当初の名称は東宝小劇場。それぞれ改装時に改称している。東京宝塚劇場は戦時中は風船爆弾の工場として使われた。戦後はGHQに接収(1945年12月24日 - 1955年1月26日)され、アーニー・パイル・シアター(1946年2月24日 - 1955年1月26日)と改称された。
  • 日劇会館 (東京都千代田区有楽町2-5-1) <1933年12月24日開館、1981年2月22日閉館>
    • 日本劇場(日劇会館 1階) <1933年12月24日開館、1981年2月22日閉館>
    • 日劇ミュージックホール日劇会館 5階) <1952年3月17日開館、1981年2月22日閉館>
    • 丸の内東宝劇場(日劇会館 地下1階) <1955年2月10日開館、1981年2月22日閉館>
    • 日劇文化劇場(日劇会館 地下1階) <1935年12月30日開館、1955年8月12日改装、1981年2月22日閉館>
  • 日比谷映画劇場(東京都千代田区有楽町1-2-2) <1934年2月1日開館、1984年10月31日閉館>
    • 閉館に先駆けて、東宝邦画系封切館「千代田劇場」は洋画ロードショー館「日比谷映画」としてリニューアルオープン(ただし「劇場」は外している)。
  • 有楽座(東京都千代田区有楽町1-2-2) <1935年6月7日開館、1984年10月31日閉館>
    • 当初演劇用劇場であったが、1951年1月1日に映画館に改装した。2005年4月9日、「ニュー東宝シネマ」が有楽座の名称を復活させリニューアルオープン。現在の館名は「TOHOシネマズ有楽座」。1987年10月3日、日比谷映画劇場と有楽座の跡地に東宝日比谷ビル(通称・日比谷シャンテ)がオープンした。
  • 東宝会館(東京都千代田区有楽町1-2-1)<1957年4月14日開館、2005年4月8日閉館>
    • 芸術座東宝会館 4階)<1957年4月14日開館、2005年3月27日閉館>
    • 日比谷映画東宝会館 1階) <1957年4月14日開館、2005年4月8日閉館>
    • みゆき座(初代)(東宝会館 地下) <1957年4月14日開館、2005年3月31日閉館>
      • 日比谷映画は当初、東宝邦画系封切館「千代田劇場」として開館。1984年10月31日に閉館する日比谷映画劇場の名称を引き継ぎ同年10月27日に日比谷映画に改称した。みゆき座は1971年2月1日に日本初となるノンリワインド映写機を導入している。閉館の翌4月1日、スカラ座2がみゆき座の名称を引き継いだ。現在は館名が「TOHOシネマズみゆき座」に変更されている。2007年10月、跡地に東宝シアタークリエビルがオープンした。
  • 渋谷東宝会館(東京都渋谷区道玄坂2-6-17) <1936年11月1日開館、1989年2月26日閉館>
    • 谷東宝劇場(渋谷東宝会館 1階) <1936年11月1日開館、1989年2月26日閉館>
    • 渋谷スカラ座(渋谷東宝会館 4階) <1989年2月26日閉館>
    • 渋谷文化劇場(渋谷東宝会館 地下) <1952年11月17日開館、1989年2月26日閉館>
      • 当初は東横映画劇場であったが、1944年9月1日に渋谷東宝劇場に改称している。渋谷文化劇場のみ1952年6月9日に設立された株式会社渋谷文化劇場が経営・運営していた。1991年7月6日、跡地に渋東シネタワーが開館した。2011年7月15日、TOHOシネマズ渋谷としてリニューアルオープンした。
  • 新宿東宝会館(東京都新宿区歌舞伎町1-19-2) <1969年10月31日開館、2008年11月7日>
    • 新宿プラザ劇場(新宿東宝会館 1階) <1969年10月31日開館、2008年11月7日>
  • ニュー東宝シネマ2(東京都千代田区有楽町2-2-3、ニユートーキヨービル地下1階) <1957年5月開館、1995年6月閉館>
    • 大映封切館「スキヤバシ映画」として開館。大映系のチェーンマスターとして機能したが、同社の経営破綻・制作配給からの撤退に伴い、東宝洋画系に転換の上1972年5月に上記の館名に変更。シネマ2の閉館の際、「ニュー東宝シネマ1(オープン当時の館名は『ニュー東宝』)」は「ニュー東宝シネマ(現在のTOHOシネマズ有楽座)」に館名を変更した。現在、跡地にはイタリアンレストランVINO VITA数寄屋橋本店地下1階店とカクテルバーBAR・B」が入店している。
  • 渋谷宝塚劇場(東京都渋谷区宇田川町21-6)<1959年7月8日開館、1997年5月30日閉館>
    • 1999年12月18日、跡地に複合商業ビル「QFRONT」がオープンし、同ビルの7階に渋谷シネフロントが開館した。
  • 上野東宝劇場(東京都台東区上野公園1-51) <1954年12月13日開館、2003年8月31日閉館>
  • 上野宝塚劇場(東京都台東区上野公園1-52) <1954年12月13日開館、2003年8月31日閉館>
    • 2005年4月、上野東宝劇場・上野宝塚劇場跡地に飲食店舗ビル「上野バンブーガーデン(正式名称:東宝上野ビル)」がオープンした。

関西地区[編集]

  • 梅田会館(梅田劇場・梅田スカラ座・北野劇場・北野シネマ・梅田地下劇場)(大阪市北区角田町7-10) <1937年12月9日開館、1978年2月28日閉館>
    • 戦後間もなくはGHQに接収されていた。
  • 南街会館(南街シネプレックス - 南街劇場・南街東宝・南街シネマ・南街スカラ座・南街文化劇場)(大阪府大阪市中央区難波3-8-11) <1953年12月18日開館、2004年2月1日閉館>
    • 前身は1938年に開館した南街映画劇場。戦後に改築した。2006年9月22日、跡地に東宝南街ビルがオープンし、地下1階から7階はなんばマルイ、8階から11階はTOHOシネマズなんばが入店している。
  • 京都宝塚会館(京都宝塚劇場・京都スカラ座)(京都府京都市中京区河原町通三条下ル大黒町58) <1935年10月開館、2006年1月29日閉館>
    • 2008年4月25日、跡地に複合商業ビル「mina kyoto」がオープンした。
      前身: 京都宝塚劇場(1935年 - 1945年)→同(GHQによる夜間接収)(1945年10月27日 - 12月31日)→ステイトサイド・シアター(GHQによる完全接収)(1946年1月1日 - 1952年7月)→京都宝塚劇場(1952年 - 1956年)→京都宝塚劇場・スカラ座(1956年 - 2006年)
  • 京極東宝1・2・3(京都府京都市中京区新京極四条上ル仲之町534-1) <2006年1月29日閉館>
    • 2008年12月11日、跡地にビジネスホテル「スーパーホテル京都・四条河原町」がオープンした。
      前身: 三友倶楽部(1911年 - 1915年)→三友劇場(1916年 - 1945年)→京極東宝劇場(1954年 - 1996年)→京極東宝(1996年 - 2006年)

中部地区[編集]

 

 

関連会社[編集]

2009年現在で連結子会社52社、持分法適用関連会社4社である。ここでは、証券取引所に上場していた連結子会社3社、持分法適用関連会社2社のみを挙げる。これ以外については「阪急阪神東宝グループ」の項目を参照。

連結子会社[編集]

持分法適用関連会社[編集]

所有ビル[編集]

有楽町・日比谷地区[編集]

新宿地区[編集]

大阪地区[編集]