アニメーション制作会社の記入。第四章。[アニメ会社と関連する企業を記す日記。] 其之拾肆

 

 

 

 

ドコモ・アニメストア

 

 株式会社ドコモ・アニメストアは、インターネット動画配信サービス「dアニメストア」の運営を行う日本の企業。

 

本社所在地 日本の旗 日本
102-0071
東京都千代田区富士見1-6-1
富士見ビル6F
設立 2012年5月
業種 情報・通信業
法人番号 9010001147062 
事業内容 アニメ動画の配信
代表者 代表取締役社長 越智武
資本金 10億円

 

 


概要[編集]

NTTドコモKADOKAWAとの戦略提携により、両社の出資で2012年5月に設立された。同年の7月にdマーケットの「アニメストア」(後のdアニメストア)の運用を開始した。2013年頃からテレビアニメなどの製作委員会に参加(出資)している。2014年2015年2016年からAnimeJapanに協賛として名を連ねている。

dアニメストア[編集]

ドコモとドコモ・アニメストアが運営する、アニメに特化した定額見放題ビデオ・オン・デマンドサービスである。アニメのTV放送は放映地域に制限があること多いが、dアニメストアは日本国中どこからでも、DVDを借りることなく、インターネット経由でスマートフォンやパソコンで様々なアニメを鑑賞することができる。ストリーミング再生だけでなくダウンロード再生にも対応しており、予めダウンロードすることで再生時にインターネット環境がなくてもアニメを再生することができる。2012年の7月3日よりdマーケット内の「アニメストア」としてサービスを開始し、2013年1月30日より他のdマーケット内サービスと名称の統一を図るために「dアニメストア」という名称になった。サービス開始当初はドコモのキャリア限定のアニメ配信サービスであったが、2014年4月1日のキャリアフリー化によって、ドコモの回線契約者でなくても視聴可能となった[4]。また、2016年3月23日からアニメ関連グッズ販売やアニソン視聴も開始したことでアニメの総合サービスとなった。月額400円(税抜)でアニメアニソンライブ映像、アニソンミュージッククリップなどを視聴することができる。アニメイトと連携しており、アニメ関連グッズをアニメイトオンラインショップから購入することもできる。2015年7月26日には会員数が200万人を突破した 。会員のメイン層は20代から30代で、会員の約4割が女性。配信コンテンツは、アニメ・アニソンライブ・2.5次元ミュージカルなどが約2,942作品、約47,676話(2019年8月現在)であり、定額制アニメ配信サービスとしては日本最大の会員数と作品数を誇る。アニソンに関しては約180曲(2016年3月23日現在)のアニソンミュージッククリップ(アーティスト映像、ノンクレジットタイトル映像、dアニメストア限定映像)を配信している。視聴にはdアカウントの取得、dアニメストアへの入会、専用アプリのダウンロードが必要であるが、dアニメストアから全て実施可能である。ドコモの回線契約者でない場合は、利用料金の支払い手段はクレジットカードのみとなる。初回31日間は無料である。元々商標「Dアニメ」はKDDIに2008年に商標申請、2009年に商標登録されている。そのため一部のニュースリリースなどでは「「dアニメストア」は、KDDI株式会社の商標です。」との表記が見られる。また、商標「dアニメストア」はKDDIに2013年商標申請、2014年に商標登録されている。

画質

配信動画のビットレートは以下の通り

  • PC用
    • HD - 3.4Mbps
    • すごくきれい - 3.2Mbps
    • きれい - 1.7Mbps
    • ふつう - 692Kbps
  • スマートフォン
    • HD - 2.7Mbps
    • すごくきれい - 1.2Mbps
    • きれい - 692Kbps
    • ふつう - 398Kbps

動作環境[編集]

動作環境は、以下の通り。

視聴制限

  • 複数の端末で同時視聴はできない。
  • ダウンロードしたコンテンツを視聴する場合、ダウンロードから48時間ごとに会員状態の確認が必要。
  • 改造された端末は視聴できないようになっている。AndroidRoot化や、iOS脱獄などに当たる
  • レンタル作品は別料金である
  • バイスによってはレンタル開始手続きが行えない
  • 日本国内からしか再生できない。

dアニメストア ニコニコ支店

2017年12月1日に、niconicoのサービスであるニコニコチャンネルとして開設。ニコニコ動画の機能であるコメント投稿が可能(ただし一部タイトルにおいては不可に設定されたものも存在する)。

ニコニコ動画ではアニメ配信も行われているが、他の配信サイトが見放題サービスを展開する中、実質的な有料会員であるプレミアム会員ではシステムの仕様上、2020年7月初旬まで見放題に対応しておらず、実質配信タイトルチャンネルの個別購入(パック購入含む)のみであった(限定的ではあるが期間を設けて数話、もしくは全話無料は実施。2020年7月以降はプレミアム限定動画が実装された)。そこでプレミアム会員とは別に、ニコニコチャンネルのチャンネル会員機能を利用する形で常設の見放題に対応した。角川が運営会社として共通していたため、dアニメストアのラインナップを配信する形でニコニコチャンネルに「ニコニコ支店」として開設。

上記のとおり、チャンネル内で配信されている動画の大部分が見放題の仕様である他、個別チャンネルの物よりさらに上の画質を選択することができる。 また、チャンネルを利用したニコニコ生放送も部分的一挙放送やテーマ別一挙放送で実施しており、2018年7月16日には「はるかなレシーブ」の公式特番と同時に会員向け放送を初めて行った。以降も、同スタイルの放送を実施している。niconicoのサービス「Nアニメ」との連携も行っている。dアニメストアで同じアニメタイトルでも別バージョンを取り扱っている場合、支店もならって別バージョンを配信することがある。

同じく月額制を採用しているが、大元のdアニメストアとは登録が別として扱っているため、dアニメストア本サイト、ニコニコ支店の両方利用する場合、二重契約を取ることになる。また、ドワンゴ運営元のサービスで取り扱っているため、契約上ニコニコ支店では取り扱っていないタイトルも存在する。

なお、実装当初は個別のニコニコチャンネルで配信されているタイトルのコメントは引き継がない状態であったが、2018年5月17日に引用機能が実装され、同タイトルの別チャンネル動画からコメントを引用表示されるようになった。

dアニメストア for Prime Video

2018年7月2日、同年6月14日に開始したAmazonPrimeのサービスである「Prime Videoチャンネル」内において、dアニメストアのチャンネルを開設することを発表。翌日3日にサービスを開始。利用にはPrime会員費のほか別途月額課金が必要となる。

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

ワーナーメディア

 ワーナーメディアWarner Media, LLC)はアメリカの総合メディア企業。映画会社「ワーナー・ブラザース」、ニュース専門チャンネルCNN」などを擁する複合企業体(メディア・コングロマリット)である。1990年、ワーナー・コミュニケーションズとタイムが合併し、タイム・ワーナーとして設立される。その後AOLに買収され、2000年にAOLタイム・ワーナーとなるが、ITバブル崩壊などの影響によりAOL部門の業績が悪化、影響力が低下したことから、2002年に社名をタイム・ワーナーに戻した。2018年、AT&Tに買収され、社名をワーナーメディアに変更した。

 

 WarnerMedia (2019) logo.svg

 

 本社の入居する超高層ビル(30 ハドソン・ヤード)

本社の入居する超高層ビル(30 ハドソン・ヤード)

 

本社所在地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク市
設立 1990年
業種 情報・通信業
事業内容 映画、エンターテイメント、テレビ、出版
代表者 ジェイソン・キラール CEO
売上高 増加 330億ドル(2018年)

 

 

 

沿革

 

 

 

主な子会社[編集]

ワーナーメディアスタジオ&ネットワークス[編集]

ワーナー・ブラザース[編集]

ワーナーメディア・ニュース・スポーツ[編集]

ワーナーメディアセールス&インターナショナル[編集]

ワーナーメディア・コマーシャル[編集]

手放した子会社[編集]

 


 

 

AT&T

AT&T Inc.(エイ ティ アンド ティ)は、アメリカ合衆国の情報通信・メディアコングロマリット。米国最大手の電話会社であるAT&T地域電話会社およびAT&Tコミュニケーションズとメディア企業ワーナーメディアを傘下に収める持株会社である。子会社を通じて、固定電話、携帯電話、インターネット接続、データ通信、情報通信システムに係るビジネスソリューションの提供、IP放送衛星テレビケーブルテレビテレビ番組の製作・配信、映画の製作・配給、出版、デジタル・ターゲッティッド広告等の事業を行う。本社はテキサス州ダラスにある。AT&Tとは旧社名 American Telephone & Telegraph Company の略。

 

 AT&T logo 2016.svg

 

 AT&THQDallas.jpg

本社所在地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
テキサス州ダラス
北緯32度46分46秒 西経96度47分56秒座標北緯32度46分46秒 西経96度47分56秒
設立 1983年(38年前)
業種 コングロマリット
事業内容 無線、電話、インターネット、テレビ

 

 

沿革

 1877年19世紀におけるアメリカの二大発明家でもあるグラハム・ベルが興したベル電話会社が前身であり、1885年に世界初の長距離電話会社として発足。社長となったセオドア・ニュートン・ヴェイルは、One System One Policy Universal Service を掲げ、垂直統合水平統合により、「ベルシステム」と呼ばれる研究開発(ベル電話会社、以下ベル社)から機材製造(ウェスタン・エレクトリック)、市内交換から長距離交換までの独占を展開。ネットワーク経済学におけるボトルネック独占を見事に現実のものとした。翌年末にジョン・ハドソンがベル社の管理者となった。ジョンは1887年にAT&T の社長となった。1899年12月31日にベル社はAT&T に完全買収された。ジョンは1900年秋に事務所で急逝した。1901-1907年、フレデリック・フィッシュが社長を務めた。フィッシュは1890年からゼネラル・エレクトリックの支配人として活躍しており、ジョン・モルガンとも付き合いがあった。フィッシュの任期にAT&T はモルガンと人的・資本的関係を深めた。1906年、AT&T1億5000万ドルの転換社債を発行、負債が8倍以上となる。翌年4月にフィッシュ辞任、ヴェイルが復任する。この状態で1907年恐慌を迎えた。

1909年にウエスタンユニオン株を買収。ここで政府が、大西洋横断電信ケーブルカルテルによるシャーマン法違反でウェスタンユニオンに訴訟を提起すると圧力をかけた。ヴェイルがウェスタンユニオンをカルテルから引き離すと、カルテル参加企業であったAnglo-American Telegraph Company とジョン・ペンダー系のDirect United States Cable Company は立場が弱く、アメリカ市場を失うまいと自社保有の大西洋ケーブル通信網をウェスタンユニオンに貸与する羽目になった。AT&Tは1914年に株を売却した。結局は国内の電信企業がイギリスの通信利権を奪い取り独占力を強化した。一方、AT&T連邦政府と折衝の上1913年にキングズベリー協定を結び、「規制下の独占」と言われる事業の独占権を認められた。こうして翌年勃発した第一次世界大戦で、RCA真空管の特許を囲い込むことができた。1925年、社長ウォルター・グリフォードがベル研究所を設立した。1926年、子会社のアメリカン・ブロードキャスティング・カンパニーRCAに売却した。しかもRCAはその放送事業にAT&Tの回線を使わなければならないという、表面上の義務協約を結んで恩恵にあずかった。子会社NBCを参照。1934年、連邦通信委員会が発足。AT&T第二次世界大戦で軍需契約の総額におき全米13位であった。1949年、司法省が反トラスト訴訟を提起しウェスタン・エレクトリックをAT&T系列から引き剥がしにかかった。1956年、ウェスタン・エレクトリックの分離は結審により見送られた。しかし、機器製造はAT&T向け使用のみに限定された。AT&Tは所有特許の競合企業への非排他的なライセンス供与が義務づけられた他、事業分野は公衆通信サービスに限定された。1962年、テルスター衛星を打ち上げた。これはトランシット (人工衛星) やインテルサットへのステップとなった。1964年6月、コムサットが第1回の株式発行。総額2億ドル。1億ドル分が第1種株式として13万人の一般国民に売却された。残りの1億ドル分は第2種株式として連邦通信委員会の認可した163の通信事業者に購入された。AT&Tは総額2億ドル1000万株のうち29%を保有した。1972年に合衆国内の通信衛星市場が自由化され、翌年2月インテルサット恒久協定が発効して国際化が推進された。ここでAT&Tコムサット株を売却してモノポリーを降板した。この1973年、米海軍の支援を受けたコムサットが86.29%を出資して、インテルサット衛星を多目的衛星とするためのマリサット計画をスタート。株主の2位、3位はそれぞれ8%のRCAと3.41%のウェスタン・ユニオン。このジョイントベンチャーは1977年8月に国際電信電話(現KDDI)と契約、KDD山口衛星通信所が設立された。1970年代反独占訴訟United States v. AT&T Co. が起こり、独占問題は収束した。

1984年1月1日AT&Tは基本的に長距離交換部門だけを持つ電話会社となり、それ以外の事業は会社分割された。これにより、地域電話部門は地域ベル電話会社8社へと分離された。また、ベル研究所も、AT&Tの機材製造・研究開発子会社、AT&Tテクノロジーズ(旧ウェスタン・エレクトリック)の傘下に置かれ、AT&T本体から分離された。合衆国の電話産業は市場競争へと開放され、特に長距離部門ではMCIスプリントなどの大手長距離電話会社の成長を見ることになる。1990年、地域ベル電話会社のひとつであるサウスウェスタン・ベルがカルロス・スリムなどとメキシコのテレメックスを買収した。1990年代後半、AT&Tは大手ケーブル会社TCIメディアワンを相次いで買収、ケーブル施設を全国に保有し、その施設を通じた高速インターネット通信事業においても大手事業者となった。1995年、サウスウェスタン・ベルが、「SBCコミュニケーションズ」に改名。1996年にパシフィック・テレシス、1997年にサザン・ニューイングランド・テレフォン、1999年アメリテックを合併吸収して巨大化する。1996年AT&Tテクノロジーズがルーセント・テクノロジーズ(現アルカテル・ルーセント)としてスピンオフ。1991年に買収後、一旦AT&Tグローバル・インフォメーション・ソリューションズに改称したNCRも、1997年にNCRとして再度スピンオフした。2001年の企業再構築により、旧TCIのメディア部門であったリバティメディアがスピンオフし、AT&Tは、AT&Tワイヤレス、AT&Tブロードバンド(ケーブルTV & ケーブルインターネット)、AT&Tコンシューマー、AT&Tビジネスの四事業体制となる。このうちAT&Tワイヤレスは切り離され独立し、2001年から2004年まではNTTドコモ筆頭株主(16%)となるが、2004年にはSBCコミュニケーションズとベルサウスの合弁会社であるシンギュラー・ワイヤレスに買収されることになった。2002年には、AT&Tブロードバンドは、ケーブルテレビ事業大手のコムキャストに買収されて、AT&T本体に残るのは、昔からある長距離通信事業のみとなった。2005年には、SBCコミュニケーションズにより、残っていたAT&T自体(AT&Tコーポレーション)が買収される。SBCは、ブランド名として価値の高いAT&Tを社名にすることにし、AT&T Inc.と改称した。買収されたAT&T Corp.は、新AT&Tの長距離通信事業を担当する子会社として残され、現在も存続している。SBCコミュニケーションズは、1983年のAT&T分割でできた地域通信会社であり、経営陣の多くがAT&T出身ではあるが、子が親を買収するようなイメージの合併であった。従って、旧AT&Tの流れは、資本上はここで一度切れたと考えるべきである。SBCのAT&Tへの社名変更はSBCの経営陣がAT&Tの圧倒的なブランド力、認知度を利用するとともに、誇るべきNYSEにおける"T"の一文字ティッカーシンボルの伝統を消したくなかった、と言われている(参考:英語版)。AT&Tのロゴは買収後に若干変更された。

 

 

        AT&T Corporation
1984年、地域ベル電話会社(RBOC)7社に分割
                                                                         
                                                                               
BellSouth   AT&T Corp.
(非LEC
  Ameritech   Pacific Telesis   Southwestern Bell Corp.
(後にSBCコミュニケーションズ)
  Bell Atlantic   NYNEX           US West
                                                                                   
                   
                                                          GTE
RBOCでないILEC
  Qwest
(非ILEC
       
                 
                                              Verizon                            
               
                                    AT&T Inc.
(元SBC)
                         
                     
                                                      CenturyLink
RBOCでないILEC
       
                                 
                                                                   
         
                                AT&T Inc.   Verizon   Lumen Technologies

 

 

2006年には、地域ベル電話会社のベルサウスを買収。ベルサウスとは携帯電話事業で合弁事業を行っており、共同出資会社シンギュラー・ワイヤレスは米国内でベライゾン・ワイヤレススプリント・ネクステルT-モバイルを抑えトップシェアとなっていた。また、この合併で地域電話会社はAT&Tベライゾン・コミュニケーションズ、クウェスト・コミュニケーションズ・インターナショナル(現センチュリーリンク)の3社に集約されることとなった。これによりAT&Tは、長距離データ通信、長距離電話、携帯電話、公衆無線LANサービス、米国本土のおよそ半分で地域電話サービスを提供する巨大通信事業者となった。2007年、シンギュラー・ワイヤレスをAT&Tモビリティに名称変更し、すべてのサービスをAT&Tのブランドに統一した。2007年12月3日2008年度末までに公衆電話事業の完全撤退を発表した。

2008年ソフトウェアアーキテクチャシステム開発アメリカ合衆国郵政公社から予算2000万ドルを上限に受注できたことを発表。

2011年3月20日ドイツテレコムの米国携帯電話事業子会社であるT-Mobile USを390億ドルで買収することを発表。しかし、この買収計画は、司法省による反トラスト法違反での提訴につながり、結局、12月にAT&Tは、買収断念を発表した。

2013年7月12日、リープ・ワイヤレスを1株当たり15ドルで買収することで合意 。

2014年5月18日、ディレクTVを485億ドルで買収することで合意したと発表、2015年7月24日に買収を完了した。2015年3月6日、ダウ・ジョーンズは、ダウ工業株30種平均の構成銘柄からAT&Tを除外すると発表。同年3月18日の取引終了後に実施された

2016年10月22日、メディア・コングロマリットのビッグ5の一角を占めるタイム・ワーナーを864億ドルで買収すると発表。2017年11月20日、司法省はタイム・ワーナー買収が反トラスト法に反するとして、ワシントンDC連邦地方裁判所に提訴した。司法省反トラスト局長のマカン・デラヒムは、「本買収は消費者に多大な害を与える。視聴料の高騰、将来の消費者が享受するであろう新しいイノベーションを抑制することになる」とコメントした。2018年6月12日、ワシントンDC連邦地方裁判所タイム・ワーナー買収を許可、6月14日にAT&Tは同社の買収を完了した[1]タイム・ワーナーワーナーメディアに改称した。

 

 

組織[編集]

AT&T Inc.は持株会社として存在し、個々の事業・地域ごとの事業は以下の事業子会社が担当している。

 

他国展開[編集]

デンマーク[編集]

1900年代の中ごろから数学者のヨハン・イェンセンアグナー・アーランはベル電話会社のデンマーク支社であったコペンハーゲン電話会社で技術者として働いていた。アーランは勤務中に効率的な電話サービスの提供に欠かせない通信トラヒック工学待ち行列理論の基礎理論を構築した。

日本[編集]

日本においては、1985年に長距離国際サービスを主にした日本AT&T株式会社が設立された。1998年の日本IBMとの戦略的合意に基づき、1999年にAT&TジャパンLLC(2007年9月1日にAT&Tグローバル・ネットワーク・サービス・ジャパンLLCから社名変更)が設立された。なお、AT&TジャパンLLCは株式の15%をNTTコミュニケーションズが持ち、AT&TIncの100%子会社である日本AT&T株式会社と若干資本関係が異なる。

AT&TジャパンLLCはAT&Tの技術を日本に導入するとともに、企業向けネットワークのアウトソーシングサービスなどを行っている。技術力は高く、顧客層はかなり大企業に偏っている模様である。国際サービスはAT&Tのサービスを使い、国内サービスはNTTコミュニケーションズKDDI日本テレコムKVHテレコムなどの回線を調達しAT&Tがマネージメントとカスタマイズをして、顧客に提供するサービスをしている。複雑なネットワークであるほど、AT&Tの評価は高い。

2010年9月に、AT&Tジャパンのネットワークアウトソーシング事業をインターネットイニシアティブへ譲渡した。

また、かつて存在したAT&TのプロバイダーサービスはAT&T日本テレコムとの合弁会社JENSが運営していたが、AT&TNTTコミュニケーションズと提携した後、合弁は解消、現在AT&Tとは無関係の会社になっている。しかし、ドメインとしてはatt.ne.jpがそのまま残っている。 ブリティッシュテレコムとの合弁、コンサートジャパンも合弁解消、こちらはAT&Tに吸収合併されている。

日本電気NEC)は、ベル電話会社(旧AT&T)の機材製造部門ウェスタン・エレクトリック岩垂邦彦による日本初の外資との合弁企業であった。現在はAT&Tとの資本関係はない。

スポンサー活動[編集]

ゴルフ[編集]

AT&Tではゴルフにも積極的である。PGAツアーでは2月のAT&Tペブルビーチナショナルプロアマ、5月のAT&Tバイロン・ネルソン選手権チャンピオンズツアーでは10月のAT&T選手権英語版のタイトルスポンサーを持っている。またかつては6月から7月にかけて開催されているAT&Tナショナルアトランタで開催されていたAT&Tクラシック英語版のスポンサーも務めていた。またAT&Tナショナルを主催するタイガー・ウッズ財団英語版の創設者タイガー・ウッズも2009年まで契約していた。

ネーミングライツ[編集]

AT&TセンターAT&Tスタジアム命名権保有している。また、かつてSBC時代の2000年から2018年まではAT&Tパーク命名権保有していた。

F1[編集]

2012年からF1チームのレッドブルスポンサーを務めている[15]。過去スポンサーを務めていたチームの移り変わりは多くジャガー・レーシングマクラーレンウィリアムズレッドブルと推移している。

 


 

 


 

 

ワーナー・ブラザース

 

ワーナー・ブラザース・エンターテイメントWarner Bros. Entertainment Inc.、略称:Warner Bros.)は、アメリカ合衆国エンターテインメント企業ワーナーメディアの子会社。本社をカリフォルニア州バーバンクに置く。ワーナー・ブラザーは誤表記。

映画製作・配給部門のワーナー・ブラザース・ピクチャーズ(ワーナー・ブラザース映画、Warner Bros. Pictures)、テレビ番組製作部門のワーナー・ブラザース・テレビジョン、アニメ製作部門のワーナー・ブラザース・アニメーション、家庭用映像ソフト部門のワーナー・ブラザース ホームエンターテイメントアメリカン・コミックス出版社のDCコミックス、2006年にCBSとともに立ち上げたテレビの全国ネットワーク・CWテレビジョンネットワークを所有する。

日本法人はワーナー ブラザース ジャパン合同会社

 

 Warner Bros. (2019) logo.svg

 

 

 Warner studios office building burbank.jpg

バーバンクの本社ビル

 

略称 ワーナー・ブラザース (Warner Bros.)
WB
ワーナー
本社所在地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カリフォルニア州バーバンク
設立 1918年ワーナー・ブラザース・スタジオ)
1923年ワーナー・ブラザース・ピクチャーズ)
業種 情報・通信業
事業内容 映画製作・配給事業
映像事業
テレビ事業
代表者 トビー・エメリック(会長・CEO)

 

 

 

年表

 

 

 

歴史[編集]

創業期[編集]

ハリーアルバートサムジャックのワーナー4兄弟はポーランドからの東欧系ユダヤ人移民労働者であった。19世紀末に両親とともにドイツハンブルクを経て、アメリカ大陸に渡りカナダオンタリオ州ロンドンに移住し、全部で8人の兄弟姉妹が貧困の中で父の経営する靴修理屋を手伝いながら生活していた。

兄弟はそれぞれの趣味と才能を伸ばし、長兄ハリーは店を拡大、ジャックは歌手として修行に励み、サムは職業を転々とするが、20世紀初頭の映画の創生時、ハリーはその魅力に取り憑かれて映写技師となった。彼は1903年に兄弟と興行会社を組み、ジャックのパフォーマンス付きで映画興行業を開始、オハイオ州ペンシルベニア州の鉱山町を巡業した。同年、ペンシルベニア州ニューキャッスルに劇場をオープン、その後1904年ピッツバーグで配給会社を設立しエクスチェンジ業(→スタジオ・システム)に進出して収益を上げた。しかし1908年、発明王トーマス・エジソンが、映画配給を独占するトラスト「モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー」(別名エジソン・トラスト)を設立したことで映画館は大きな打撃を受ける。エジソンは、保有する多数の映画関係の特許をたてにし、トラスト参加各社の作る映画を上映する度に映画館から料金を徴収した。トラストの圧力によって多数の映画業者が配給網を絶たれ、ワーナー兄弟も一度は業界から手を引く。

 

しかし映画製作の夢を秘め続けたサムは、再び兄弟を説得して1918年ハリウッド映画スタジオを構え、ハリーたちはニューヨークで資金調達や配給を行った。1923年、ワーナー兄弟はワーナー・ブラザース・ピクチャーズを会社登記する。

映画製作の最初の一歩は、脚本家アヴェリー・ホップウッド(Avery Hopwood)の1919年のブロードウェイ演劇『ゴールド・ディガーズ(The Gold Diggers)』の権利購入であったが、会社成長のきっかけは第一次世界大戦後に、ある兵隊がフランスから連れ帰った一匹の犬、リン・チン・チンであった。この犬を主人公にした映画「名犬リンチンチン」シリーズは1924年以降26本作られ、ハリウッド有数のスタジオへと押し上げた。

これらの成功によりウォール街からの投資を受けるようになり、1924年には同じユダヤ系資本ゴールドマン・サックスから巨額の融資を得た。この資金で、1897年以来の歴史を持つハリウッドの先発スタジオで全国規模の配給網も所有していたヴァイタグラフ(Vitagraph Company)を1925年に買収、さらにラジオ放送にも進出し、ロサンゼルスのKFWBをはじめ幾つかの都市に放送局を誕生させた。また映画業界を荒れ狂っていた劇場建設・買収の競争にも参入した。

トーキーとカラー映画の導入

 

ヴァイタグラフが進めていた音声と映像が同期したディスク式有声映画システム、ヴァイタフォンの開発を引き継ぐこととなり、1926年よりこのシステムを利用して音楽や効果音のある有声映画の製作を開始。1927年10月には、これをさらに進め、部分的にせりふのある世界初の長編映画である『ジャズ・シンガー』を配給した[1]。これがトーキー時代の幕開けであり、これはハリウッドにセンセーションを巻き起こす事象であったが、『ジャズ・シンガー』公開前にトーキー開発に熱心だったサム・ワーナーが死去、彼の葬儀のためワーナー兄弟は『ジャズ・シンガー』のプレミアに出席することはできなかった。

この映画の成功で得た資金により、大手配給会社スタンレーを1928年に買収し、スタンレーが3分の1を所有していたワーナーのライバルである大手映画製作・配給会社ファースト・ナショナル(First National Pictures)の買収に王手をかけた。ウィリアム・フォックス率いるフォックス・フィルム20世紀フォックスの前身)との激しい買収合戦の末、1929年にファースト・ナショナルの経営権を得ることに成功したが、大恐慌が映画業界を直撃、ファースト・ナショナルと合併し、同社がバーバンクに所有していたスタジオに移転した。裁判所より合併を認められたが、1938年まで毎年何本かの映画をファースト・ナショナルの名義で製作・配給するよう要請され、その後30年間にわたり「ワーナー・ブラザース=ファースト・ナショナル(A Warner Bros. - First National Picture.)」名義での製作が行われた。

1928年、世界初の初の全編音声付きトーキー長編映画紐育の灯』を製作し成功を収めた[2]。1929年、テクニカラーを使用した『エロ大行進曲(On with the Show)』を製作、それまで二色式カラー映画や無声テクニカラー映画は発表されていたが、全編音声付・全編カラー映画はこれが最初だった。同年、同様のカラー映画『ブロードウェイの黄金時代(Gold Diggers of Broadway)』を製作し、この年一番の人気を博し、1939年まで各地の劇場で続映され続けるほどのヒットになった。これ以後、1931年までの間に数多くのカラー映画を製作したが、各地の観客がミュージカル映画に飽きてしまい[3]、各社がカラー映画の製作を行わなくなったため、ワーナーも多くのミュージカル映画の製作を中止し、すでに製作した映画をコメディとして宣伝するはめとなったが、テクニカラー社と、あと2本カラー映画を製作する契約が残ってしまっていたため、ミステリー映画初のカラー作品『ドクターX(Doctor X)』(1932年)と『肉の蝋人形(Mystery of the Wax Museum)』(1933年)が製作された。

ギャング映画とヘイズ・コード

『リン・チン・チン』シリーズ以来多くの脚本を手がけ、プロデュースも行っていたダリル・F・ザナックの下で、大不況の影響を受けていた1930年代は、ギャングの抗争を報じる新聞の見出しを切り抜いたような('torn from the headlines')ギャング映画で名をはせるようになった。1920年代の都会的で洗練されたスター達に代わり、ジェームズ・キャグニーエドワード・G・ロビンソンジョーン・ブロンデルなど、乱暴な語り口の労働者タイプのスターを多く起用し、リアルなギャング路線で成功をおさめる[4]

1933年にザナックの退社後[5]は洗練された路線に変更していく。女性向けメロドラマ剣戟映画、ベストセラーの映画化などを製作し、ケイ・フランシスベティ・デイヴィスエロール・フリンらを起用した。ヘイズ・コード適用以前もっとも成功していたスタジオのひとつだったが、検閲により受ける打撃を避けるために歴史映画や倫理的・理想的人物を描いた映画などに方向転換するが、コード強化以前のスターらは次第に出番が少なくなり、当時のワーナーらしさや輝きは薄らいでいった。

カートゥーン製作[編集]

映画タイトルやサイレント映画の字幕などの製作をパシフィック・アート・アンド・タイトル社(レオン・シュレジンガー(Leon Schlesinger)所有の独立スタジオ)でおこなっていたが、1930年より、ヒュー・ハーマン(Hugh Harman)とルドルフ・アイジング(Rudolf Ising)というディズニー出身の有能なアニメーターが、自身のアニメーション・スタジオを設立、シュレジンガーもそれに参加する形で、アニメーション(カートゥーン)映画製作に乗り出した。彼らはジャズを使って過激なギャグ(この後のヘイズ・コード適用後は不可能になった)を交え、黒人少年ボスコを主役にした『ルーニー・テューンズ』(Looney Tunes)、および『メリー・メロディーズ』(Merrie Melodies)などのヒットシリーズを作り上げた。1933年にハーマンとアイジングが製作環境や契約でもめてシュレジンガーのもとを去った後、シュレジンガーは自身のアニメーション・スタジオである、『レオン・シュレジンガー・プロダクション』を設立し、ジャック・キングフリッツ・フリーレング(Friz Freleng)らが白人少年バディを主役にカートゥーン映画を作り続けた。この会社はロサンゼルスのワーナー・スタジオ内に設立された為、実質ワーナーの系列会社であった。

やがて、漫画家志望の青年テックス・エイヴリーが加わりターマイト・テラス(Termite Terrace)という小さなスタジオをシュレジンガーから任されると、ターマイト・テラスは数々の過激なアニメーションを製作し、バッグス・バニーダフィー・ダックトゥイーティーなどなど現在知られる人気キャラクターが次々と生み出された。

1944年シュレジンガーがプロデューサーを引退し、以後、バッグス・バニーダフィー・ダックは当社のイメージキャラクターとなるに至っている。

黄金時代の終わり

1940年代、ベティ・デイヴィスジョーン・クロフォードらを起用した女性向け映画によって、娯楽が制限された第二次世界大戦下でも多くの観客を集めた。またハンフリー・ボガートがスターとなり、戦後はローレン・バコールドリス・デイらが新たなスターとなった。1948年1月5日パサデナで1月1日に行われたローズボウルローズパレードの模様を伝えるニュース映画をカラーで提供し、これが最初のカラーでのニュース映画となった。

1940年代を通じ、反トラストをめぐる「アメリカ合衆国パラマウント映画」裁判[6]の当事者となった。連邦最高裁判所1948年に審問を行い、映画会社側が敗訴した。この結果、当社を含む五社は垂直統合を禁じられ配給網を切り離し売却することを強いられた。これがブロック・ブッキング制度を終わらせ、撮影所システムの崩壊の始まりとなり、1970年代半ば(『ジョーズ』『ロッキー』『スター・ウォーズ』などブロックバスター映画の時代)まで続く凋落の一因となった。

1953年、ワーナー・シアター・ホールディングスはスタンレー・ワーナー・シアターズとして分離された。ワーナーの映画だけで年間上映スケジュールを埋める映画館網を失った以上、年に多数の映画製作は不要となり、高い契約キャストやスタッフを抱えることもできなくなった。創業50年目で撮影所システムの崩壊に直面し、バーバンクの広大な製作スタジオを、銀行を中心とした買手グループに売却した。

1956年、スタジオ売却取引が完了した直後、ハリー・ワーナーとアルバート・ワーナーは、銀行主導のグループの背後にいた投資家がワーナー四兄弟の末弟、ジャック・ワーナーだったことを知った。ファミリービジネスだった映画会社を自分ひとりの管理下に置いたジャックに対し兄弟は怒り、家族関係に亀裂が入り、以後生涯にわたりハリー、アルバート、ジャックは互いに口を利くことはなかった。同年、アニメも含む1948年以前の作品を配給会社アソシエーテッド・アーティスツ・プロダクションズ(a.a.p.)に売却する[7]。その後、『悪い種子(The Bad Seed)』『軍曹さんは暇がない(No Time for Sergeants)』『メイム叔母さん』『ジプシー(Gypsy: A Musical Fable)』など、ヒットした演劇やミュージカルの映画化に再び専念したほか、『サンセット77』『マーベリック』などのヒットドラマを放つテレビドラマ製作部門が成功したことで立ち直った。

1958年には音楽出版社ワーナー・ブラザース・レコードを立ち上げてこれも成功させたが、1960年代初頭には映画部門の不振は誰の目にも明らかだった。スタジオがプロデュースする映画はほんのわずかで、ほとんどは他社との共同出資(施設提供、資金出資、配給の実施)による映画やインディペンデント映画の配給などであった。

1967年、ジャック・ワーナーは老化と時代の流れに屈し、映画会社の経営と音楽ビジネスを7800万ドルでカナダ人投資家のエリオット・ハイマンとケネス・ハイマン兄弟に売却し、彼らが経営する独立プロダクション、セヴン・アーツ・プロダクションズ(Seven Arts Productions)と合併する。彼らは、1956年に作品の版権を買ったアソシエーテッド・アーティスツ・プロダクションズの当時の経営者であった。社名はこの後、ワーナー・ブラザース=セヴン・アーツに変わる。

ティーブ・ロスの時代[編集]

2年後の1969年、資金難のハイマン兄弟はスティーブ・ロス(Steve Ross)が率いる複合企業群「キニー・ナショナル・カンパニー(Kinney National Company)」の買収提案を受け容れた。

1940年代後半に設立されたキニー社は当初はニューアークのキニー通りにある駐車場に過ぎなかったが、葬儀場会社により買収合併されて以降レンタカー、オフィス清掃、建設業、芸能エージェンシーと手を広げ巨大コングロマリットを形成、1962年に株式を一般に公開した。

1967年にロスはハリウッドの芸能エンジェシー大手だったアシュリー・フェイマス(Ashley-Famous)を買収した。ア社のテッド・アシュリーは芸能ビジネスよりケーブルテレビ事業が儲かると考え、映像事業へ転進するための資金力あるパートナーを探していた。アシュリーは資金難にあったワーナー・ブラザース=セブン・アーツを買収するアイデアをロスへ打診した。ワーナーはキ社に買収されて以降アシュリーが経営者となり、社名は再度ワーナー・ブラザースWarner Bros. Pictures)に戻った。1972年にキ社は葬儀場や駐車場の分野を新会社としてスピンオフし、映像、音楽の娯楽産業を管轄するグループ本社は社名をワーナーにちなんでワーナー・コミュニケーションズに変更した。

ロスが来た時にワーナーは映画ではなく傘下のレコード会社が成長株とされていた。アーメット・アーティガンはロスに会い協力すると決めた。モー・オースティン、ジャック・ホルツマン、デビッド・ゲフィンがワーナーのトップだった。レーベルの買収などで悪評を残したがワーナーはCBSから首位を奪いとった。

斜陽の映画産業でワーナー・ブラザーズは低予算で製作本数を減らした体制を選択。また集客力があるスタープロとの提携を進めた。クリント・イーストウッドバーブラ・ストライサンドはその代表格。ユニバーサルの手中にあったスティーブン・スピルバーグにも接近。MCA のルー・ワッサーマンと綱引きを演じた。映画産業ではいち早くケーブルテレビに着目しアメックスと合弁事業を展開、巨額な資金を投じた。

ロスはコングロマリットの総帥として映像、音楽業界に影響を及ぼした。ワーナー・コミュニケーションズがM&Aによりあらゆる分野に利権を持ち、買収を重ねた。ビデオゲーム会社アタリを、さらに遊園地経営会社シックスフラッグスを買収、アタリは傘下に入って以降、ワーナー・コミュニケーションズの利益のかなりの部分を占めるグループの稼ぎ頭になった。しかし、ゲーム市場の崩壊(日本で言ういわゆる「アタリショック」)が起こると、ワーナー・コミュニケーションズ自体の株価も低落した。

これにより1984年にはルパード・マードックがワーナー株を大量に買い、最終的にマードックの株をワーナーが引き取り決着するまで互いの攻防も世間を賑わせた。クリス・クラフト・インダストリーズと株式交換マードックを退けたが、今度はワーナーの株25%を得てパートナーとなったハーバート・シーゲルとの仲が難しくなった。アメックスと合弁事業で出資していたMTVShowTimeはロスの自慢だったが、シーゲルはこの金の卵をロスから手放せさせた(ちなみにこれらを買収したバイアコム帝国は躍進した)。ロスとシーゲル両者の争いは五年間に及んだ。

老舗のワーナーは良くも悪くもロスにより塗り替えられた。ロスは人当たりがよく情熱的で腹の太い人物とされ、ワーナー幹部たちに自由を与え、それにより取締役会はファミリーとしての結束が形成された。ロスの個性が、ワーナーの企業風土になり、プライベートジェットをスターに気軽に使わせる等、他社との差別化に成功して躍進の一因になった。スピルバーグは父よりも父であって欲しい人物としており、『シンドラーのリスト』では主人公の人物像にロスの姿を投影した。

ロスの憧れはウィリアム・ペイリーen:William S. Paley)だった。彼のように上流階級に入り現代美術や音楽の文化的な保護者になるには、同じユダヤ系でもロスの出身は低く、前職(葬儀場のディレクター)の評価は低く、また教養もなかったが、人柄が好かれロックやアクション映画のスターを友人として扱った。しかし、彼の桁外れの贈り物が彼のポケットから出たのか、会社の金庫から出たのかは疑問が残るし、会社が株主のものであるという意識が薄かったとも指摘される。側近はワーナーを手に入れた彼をハーシーのチョコレートを見つけたガキ大将が気前よく手下に与える様子になぞらえている。東海岸のマフィアによる不正蓄財とキニー社との繋がりはタイムとの合併時に上品なタイムが懸念するなど、ロス王国に影を落とした。

1971年から1987年末まで、コロンビア映画との共同事業により国際配給をおこなっており、いくつかの国では同連合は他社の映画も配給していた。1988年以降ウォルト・ディズニー・ピクチャーズと組み、1993年にディズニーが独自にブエナ・ビスタ・インターナショナルを設立するまで続いた。

 

タイム・ワーナー

 

1989年、派手なワーナー・コミュニケーションズと、『タイム』で有名な上流階級的な出版グループ・タイムとが統合しタイム・ワーナー(現:ワーナーメディア)が誕生した。出版、映画、テレビ番組製作、レコード、ケーブルテレビを傘下に収めた152億ドルの価値を誇るマスメディア史上最大の合併[8] は、世界を驚かせた。

統合直後でも不安が募るタイム社内では机の前に座り笑っているロスの漫画がまわされた。彼の台詞は『俺のものは俺のもの、お前のもの(恐らくHBO)も俺のもの』だった。

1995年タイム・ワーナーCNN創業者テッド・ターナー率いるターナー・ブロードキャスティング・システムと合併、これによりタイム・ワーナーターナーが持っていた1948年以前のワーナーのフィルム・ライブラリーを取り戻したほか、MGMやRKOなどの旧作のライブラリも手に入れた。一方、アタリゲームズやシックスフラッグスなどの事業は売却した。タイム・ワーナー2000年AOL社に買収されAOLタイム・ワーナーとなったが、その後ITバブル崩壊でAOLの資産は減少、社内の影響力も衰退し2002年、社名がタイム・ワーナーに戻された。AOLは社内の1部門となったが、2009年12月、正式に分離された。

1995年シカゴの新聞・テレビ網グループトリビューン・カンパニーと、地上波テレビネットワークThe WBを設立、ニッチ市場であったティーンエイジャーを狙った『バフィー ~恋する十字架~』や『ドーソンズ・クリーク』などの学園ドラマでヒットを飛ばした。さらに『チャームド』『7th Heaven』などの家族向けドラマの成功でWBは脚光を浴びたが、三大ネットワークやそれに次ぐ躍進を見せたFOXとの差は縮まらなかった。2006年、CBSタイム・ワーナーは、CBS傘下のUPN(United Paramount Network)とワーナー傘下のWBの両地上波ネットワークを解散して新たなネットワーク、CWテレビジョンネットワークを立ち上げた。

映画事業では、1990年代末に『ハリー・ポッター』シリーズの映画化権を買い、2001年の『ハリー・ポッターと賢者の石』以降、ドル箱シリーズとして10年間続いた。また有力な監督やプロデューサーが率いる多くの中小プロダクションと共同製作や配給を行ってきたほか、アンブリン・エンターテインメントモーガン・クリーク・プロダクションズ(Morgan Creek Productions、現在はユニバーサル・スタジオと製作)、リージェンシー・エンタープライズ(現在は20世紀フォックスと製作)、ヴィレッジ・ロードショー・ピクチャーズレジェンダリー・ピクチャーズ(現在はNBCユニバーサルと製作)、シルバー・ピクチャーズダークキャッスル・エンタテインメント はその一部)、ゲフィン・フィルム・カンパニー(Geffen Film Company)、ラットパック=デューン・エンターテインメントなど、多数のヒットメーカーと組んで映画製作を行った。

 

邦画事業への参入[編集]

1993年マイカルと合弁でワーナー・マイカル・シネマズを設立して本格的に日本国内のシネコン事業に参入した頃から、コンテンツ確保のための邦画事業を画策して1998年日本テレビ東芝と合弁でトワーニを設立し、2000年の『さくや妖怪伝』を皮切りに計4作品を製作して配給するが興行は成功せず、2004年に『キューティーハニー』の製作と配給を最後にトワーニは解散する。

その後も独自の邦画配給を継続して2006年に配給した日本テレビ制作の『デスノート』シリーズの大ヒットを契機として本格的に邦画に参入し、配給会社のリスクが最小で済む製作委員会方式の作品の流行りから配給作品における邦画の占める割合が年々増加している。

ホームビデオ事業で国内のファミリー層向けコンテンツを確保するため、『相棒』のようなTVドラマ作品、『巨人の星』や『金田一少年の事件簿』のようなTVアニメーション作品、『探偵!ナイトスクープ』や『志村けんのバカ殿様』などの人気バラエティ番組のDVDも積極的に販売している。

アジアへの参入[編集]

2015年に中国語映画の企画開発・製作・配給を目的として、中国投資ファンドのチャイナ・メディア・キャピタルと合弁会社「フラッグシップ・エンターテイメント・グループ」を設立。

 

主な事業部門・グループ企業

 

過去の事業部門・グループ企業[編集]

 

主な映画

 

洋画[編集]

 

次世代DVD戦争[編集]

第3世代光ディスクにおけるBlu-ray DiscHD DVD規格争いは「次世代DVD戦争」と呼ばれた。初めはHD DVD陣営だったが、2005年にBD-ROMプレスコストがDVD並で済むと判明してからはニュー・ライン・シネマパラマウント映画と共にBDにも参入する。その後は、一部のソフトをHD DVDのみで販売したり、HD DVD独自の映像特典を収録するなど、元々の陣営であったHD DVDに力を入れている傾向があった。Total Hi DefというBDとHD DVDの張り合わせディスクの発案をしたり、パラマウント東芝HD DVDへの独占供給を行うという契約を行った後も、長い間両陣営という立場を守ってきた。

しかし、2008年1月4日のCESを直前にBDへの一本化と、HD DVDは5月までに撤退することを発表し、これにより一挙に次世代DVD戦争はBD陣営に傾いた(ウォルマートストアでのHD DVD製品撤去など)。一本化の理由として第一に『長期に渡って販売数はBDが優勢だったこと』を挙げ、また『長い目で見た映画産業とその健全性を守るため』と説明していた。この直接的な影響として、2008年2月19日、東芝HD DVD事業を全面撤退することとなった。

 

基本的にオープニングロゴとして使われたものには2種類ある。

  • クラシック・ロゴ
    • WBの文字をあしらった楯のもの。現在までこのデザインが主流。
  • モダン・ロゴ

その他、ワーナー・ブラザース=セヴン・アーツ時代には盾風の枠の中でWの右端と7が合体したロゴが使用された(1967年 - 1970年、6代目ロゴ)